『まんぷく』ヤミ市で見かけたラーメンの屋台には笑顔に包まれた人たちが…日清食品創業に影響を与えた安藤百福<心の原風景>
2018年に放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「解放された日々 ~若者集め塩作り」です。 【写真】水泳が得意だった仁子、30歳の頃 * * * * * * * ◆「それなら、私が一役買おう」 大阪の街には、出征先から帰国した復員軍人や引揚者や戦災孤児があふれていました。復員軍人の中には、まだ短銃を持ち歩く者もいて物騒でした。 百福は、親しい政治家―当時、運輸省鉄道総局長官だった佐藤栄作(後の総理大臣)や田中龍夫らと会う機会があると、いつも、「若者がいつまでも仕事もなくぶらぶらしているのは困ったものだ」という話になりました。 「それなら、私が一役買おう」と、百福が男気を出します。 仕事のない若者を集め、泉大津の浜で働かせることにしました。みんな住み込みで、給料はありませんが、奨学金のような生活費を支給しました。百福は赤穂で覚えた塩作りを、見よう見まねの自己流で始めたのです。 薄い鉄板を集め、海側を高く、山側を低くして並べます。強い日差しを浴びてやけどするくらい熱くなった鉄板の上に海水を流します。この作業を何度も繰り返すと、次第に塩分が濃縮されます。最後に、たまった濃縮液を大釜に集め、さらに煮詰めると、立派な塩ができました。泉大津の浜一面に見渡す限り鉄板が並んだ様子は壮観でした。 「普通の塩田よりも、このやり方の方が能率的だった」と、のちに百福が自慢したほどの出来栄えだったそうです。
◆幸せな生活 塩の生産は明治以降ずっと国の専売制で勝手に作ることは禁じられていました。太平洋戦争が起こって塩の生産が減り、輸入も困難となったため、1942(昭和17)年に「自家用塩制度」という法律が施行され、非常手段として塩の生産が認められました。百福のアイデアは、多くの人に喜んでもらえる上に、国の方針にも沿ったすばらしい事業としてスタートしたのです。 とはいえ、素人のやることですから最初は失敗の連続です。屋根のない露天の工場なので、雨が降るとせっかく溜めた濃縮液が流されてしまいました。ある時など、電気がショートして付近一帯が停電し、電力会社から大目玉を食いました。 これはのちに、若者の一人がいたずらをして、配電盤にカニを突っ込んだためと分かりました。できた塩には少し黄色っぽい色がついていましたが、近所や泉大津の市民に配ると大変喜ばれたそうです。余った塩はゴマや焼き海苔を入れて、ふりかけにしました。 また、漁船を二艘買い、沖合でイワシを捕りました。魚の群れが、それこそイワシ雲のように湧きあがりました。全員、連日の豊漁にわきました。とれたてのまだ生きているイワシを、ムシロの上に広げて乾燥させると上等の干物になったのです。 水泳の得意な仁子は、若者たちと一緒に船に乗りました。沖合で泳ぎ、一緒に漁をし、子どものようにはしゃいでいました。百福はあまり泳げません。仁子が海に入って、「はい、ここまで」と叫ぶと、バシャバシャと泳ぎ始めます。仁子は少しずつ沖に後ずさりして、百福を困らせます。 楽しい日々が過ぎていきました。貧しさと、戦争の苦しみから解放されて、ようやく仁子にも幸せな生活が訪れたのでした。
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