家康が付けた配下との「上下関係」に苦しむ服部半蔵父子
■武士として活躍した服部半蔵父子 服部半蔵(はっとりはんぞう)は徳川家に仕える忍者集団の絶対的な棟梁として、家康の伊賀越えを成功させ、他国の諜報活動や攪乱(かくらん)、暗殺を担った人物だというイメージが一般的には強いと思います。 半蔵という名乗りは服部家の当主が使うため、二代目半蔵正成(はんぞうまさなり)と三代目正就(まさなり)の二人がよく知られる存在です。二代目正成は鬼半蔵と呼ばれる槍の使い手として、数々の戦で武功を挙げた武士として家康に奉公しています。伊賀越えの後に、家康によって伊賀甲賀出身者たちを配下に付けられた事で、忍者集団の棟梁というイメージに繋がっているのだと思われます。 但し、三代目正就の時代になると、配下の伊賀者たちとの不和などが重なり幕府によって改易されてしまいます。これには服部家と伊賀者たちとの間の「上下関係」に関する認識の違いが大きく関係しています。 ■「上下関係」とは? 「上下関係」とは辞書等によると「地位・身分・年齢などの、上位の者と下位の者との関係」といった人間関係をさします。人間が組織を形成する際に社会的な力関係によって生まれるものですが、組織を効率的に運用していくにあたって「上下関係」の明確化は必要とされます。 「上下関係」では、上とされる側には強力なリーダーシップが必要とされ、下とされる側の納得性が高くなければ、不満へと繋がり組織内の不和を生み出す原因となります。服部家は配下の伊賀者たちとの「上下関係」の構築に悩まされていきます。 ■服部家の事績 服部家の本貫は伊賀とされており、初代半蔵保長(やすなが)の時代に国を離れて三河の松平広忠(まつだいらひろただ)に仕えたと言われています。二代目半蔵である正成は家康の譜代家臣として仕え、鬼半蔵と呼ばれるほど槍の名手として有名でした。姉川の戦いや三方ヶ原の戦いなどにも参加し、武功を挙げています。 三代目正就は半蔵の名と伊賀同心を引き継ぎ、関ヶ原の戦いでの上杉征伐にも従軍します。しかし、1604年に正就は突如として改易されてしまいます。