鹿取義隆は「壊れてもいい」とシーズン63試合に登板 「カトられる」という流行語を生んだ
セーブ制度導入50年~プロ野球ブルペン史鹿取義隆が語る球界屈指のリリーバーとなった軌跡(前編) 【写真】読売ジャイアンツ「ヴィーナス」オーディション密着取材・フォトギャラリー 1978年、巨人入団1年目の角盈男は60試合に登板し、先発は6試合だった。その6試合のうちの1試合を、明治大4年生の鹿取義隆が見ていた。東京六大学のリーグ戦でエースの高橋三千丈とともに活躍した鹿取だが、プロ入りは考えていなかったという。では後年、ともに巨人リリーフ陣を支える角の投球を、当時はどう見ていたのか。鹿取に聞く。 【"江川事件"で急転直下の巨人入り】 「僕は角とは同学年なんだけど、『すごいな、速いボール投げるな』っていう印象だった。でも、その時はプロに行く気持ちはまったくなかったし、何も意識することなく、ただ憧れて見ていただけ。リリーフもやっていたけど、角は先発ピッチャーというのが自分のなかのイメージだったね」 もともと鹿取は社会人野球に進むことを希望し、日本鋼管への入社が内定していた。ゆえに78年のドラフトではどこからも指名されなかったが、直後に人生が変わる。"江川事件"でドラフトをボイコットした巨人が鹿取を獲りに来て、一転、プロ入りを決めたのだった。 鹿取は明治大3年時、4年時と日米大学野球の日本代表メンバーに選出。4年時の大学野球選手権では決勝で専修大を完封しており、この時の投球も、プロのスカウトの評価を高めていた。それだけに巨人は鹿取を高く評価し、ドラフト外ながら、中日に1位指名された明大エースの高橋と同等の契約条件を提示。球団からは即戦力を期待されていた。 「でも、1月の合同自主トレに入った瞬間に、この投手陣のなかに割り込むのは厳しいと思ったからね。その時点でもう主力ピッチャーのボールが違う。スピンが利いて、キレがあるなと。だから即戦力というより、オレは一軍に残れるのかなというのが最初の印象ですよ」 それでも、2月のキャンプ直前、鹿取と同じ右サイドスローの小林繁が、江川卓とのトレードで阪神に移籍。同タイプの投手は同学年の田村勲だけになった。さらに、主力投手にケガ人が出て、キャンプ4日目には二軍から一軍へ。新人の鹿取にとって追い風が吹き、一軍の投手陣で生き残れる可能性が高まった。