「日大帝国」築いた独裁者の人心掌握術と権力基盤 「民主的でかつ効率的な組織」が存立可能な条件
なぜ田中が大相撲には進まず、大学に残り、一職員としてそのキャリア形成をスタートさせたのか、その理由は本書を読む限りではよくわからない。上司に当たる保健体育事務局長だった橘喜朔が田中に「仮にこのまま教員として出世しても、よくて助教授、教授止まりだぞ。だったら、職員になって大学のトップを目指せ」とアドバイスをしたという証言が採録されているが(101頁)、常識的に考えると、田中ほどの相撲の実力があれば、大相撲での出世をめざすほうが、実務経験ゼロのスタートから「大学トップ」を狙うよりはるかに確率のよいキャリアパスである。
なぜ、田中は大学に残ったのだろう。 ■「日本一の大学」を作るという吸引力 森は田中自身の内的な動機については深く詮索をしていないが、私見では、田中は日大という大学に、つよい愛情と執着を抱いていたからではないかと思う。 力士として盛名を馳せるよりも、「日本一の大学」を作ることの方が田中にとっては人生を懸けるだけの甲斐のある事業に思えたのではないか。教育機関にはそういう種類の吸引力がある。 日大のように建学者から数えて100年を超える伝統がある大学の場合は、そこに堆積した先人の「思い」が固有の磁場を形成していて、卒業生や在校生を惹きつけるということがある。「学統」に連なっていることが己のアイデンティティーの基礎づけになるのである。
おそらく田中は日大の一員であるという帰属感に人格的な安定感の大半を委ねていた人だったのだろうと思う。 田中英壽は「帝国」と呼ばれるほどの独裁体制を創り上げた。田中に批判的な立場から書かれている本書でも、田中自身が意地汚く個人的な蓄財に励んだとか、イエスマンに取り囲まれて増長したとか、目下の人間に不要な屈辱感を与えたというような記述はほとんどない。むやみに威張り散らすタイプの人ではなかったらしい。
田中は運動部を束ねる保健体育審議会(保体審)と120万人の会員を誇る校友会という2つの組織を足場にして、5期13年にわたり絶大な権力を振るった。だが、その「絶大な権力」を獲得するために田中が採用した手段はずいぶん非効率的なものであった。 保体審は各運動部の部長や監督コーチを招いて原宿の南国酒家で年に数回の宴会を行った。田中はそこで運動とはもともと縁がないけれども、名目上「部長」や「副部長」の肩書を与えられた教員たちの間を遊弋(ゆうよく)して「部長」と持ち上げ、「いい気分」にさせることに細かい気づかいを示した。