デンマークの地方都市を舞台にしたアートの祭典が人々にもたらすものとは?
さらに言えば、50年代当時、畑しかなかったヘアニングの街はずれに、突然アートという風が吹いたことはマスコミに多く採り上げられたのだが、それをも広告的価値があると知っていた。1991年に74歳で逝去したダムガードの言葉がここに残っている。 「芸術は私を幸せにしてくれると同時に、私は芸術が立派なビジネスであると考えています」 「いい芸術を目の前にしているのに、鈍感にならないでください。あなたがそれを気に入ってくれようが、私をののしろうが、私はかまいません。出来る限り、私は人々を揺さぶり、怒らせ、興奮させたいのです」 50年代、60年代、田舎町にやって来た“コンテンポラリーアート”や“コンテンポラリーアーティスト”がいかに人々にとって異質に映り、どのように人々が反応したのか想像に難くない。けれど、それが話題を呼び、工場の見学を希望する訪問者が年々増え、それが数千人に達した時、美術館という構想が持ち上がっている。人々を揺さぶり続けること、それが確かに何かを動かし始めたのだ。
●蒔かれた種が美術館になり、ビエンナーレが始まる
こうして蒔かれたアートの種は確実に育って行く。1961年にはダムガードの主導で工場付近に市民の誰でも、もちろんアングリ社の従業員たちも通えるアートやデザインを主体とした高等教育機関学校を開校し、1976年、ダムガードが工場ビルの中庭をぐるりと取り囲む壁にセラミック作品の制作を依頼したアーティスト、カール=ヘニンング・ペデルセンの美術館が工場のすぐ隣に設立。 そして翌1977年には、ダムガードが寄贈したコレクションを元に、閉鎖したアングリ社の工場ビルが〈ヘアニング現代美術館(HEART)〉としてオープンしたのだ(現在の建物は、コンペの後、スティーブン・ホールの設計で元アングリ社の工場ビルの向かいに新設され、2009年に再オープンしたもの)。 そして2002年から始まったのが『ソクル・ドゥ・モンド・アート・フェスティバル(Socle du Monde Art Festival)』だ。最初はビエンナーレとして美術館内だけでの展示だったが、2017年、近隣の都市オーフスが世界文化都市に選ばれたのを機に、より国際色豊かに、さらに会場を前述の学校(現在はカルチャー・ホテルとして営業)や〈ペデルセン美術館〉など美術館の外にも広げて行った。 今年は総合タイトル“DO IT”のもと、会場ごとにキュレーターを立て、それぞれがアップサイクリング(創造的再利用)、トラベル、ユアセルフ、リワイルディング(再野生化)と独自のテーマを展開している。世界各地のビエンナーレやトリエンナーレは、その展示のために制作された新作や比較的新しい作品が披露されることが多いが、ここでは現代美術の古典とも言える作品もあえて採り上げ、同じテーマでこのために制作された作品や近作を同時に展示することで、過去から現在までの繋がりを描き、またそれにより未来への展望を見せる試みがされている。