「日本は死んでほしくないけど泣いちゃうよ」保育園に入れず朝5時台の電車を親子で5路線乗り継いだ 近藤さや香が直面した保活の壁
SDN48の1期生としてデビューした近藤さや香さんは、グループ解散後、念願のラジオパーソナリティに抜てきされました。しかし、肝心の保活では「たくさん苦しんだ」と振り返ります。ベビーシッターはすべての会社に断られ── 。(全3回中の2回) 【写真】迷彩柄のホットパンツで熱唱 SDN48時代の「脚がきれい」な近藤さや香さん(全17枚)
■SDN48解散後「しゃべりをやりたいです」 ── SDN48解散後、アナウンサーが多数在籍するセント・フォースの所属になった経緯を教えてください。 近藤さん:3年間ほどグループ活動をしたあと、それぞれの希望を聞く面談がありまして。私は「しゃべりをやりたいので、所属先はアナウンスに強い事務所さんでお願いしたいです!」というようなことを言ったんです。もちろんすべてが希望通りに進むわけではないのですが、ありがたいことに、今の事務所に推薦してくださったと記憶しています。28歳のときでした。
── 競馬番組のアナウンサーをしていた31歳のとき、結婚と出産を経験されました。産前産後はいかがでしたか? 近藤さん:産前は臨月まで仕事をしていて、出産3~4日前まで友人とご飯を食べに行っているくらい元気だったのですが、産後は「こんな地獄があるかいな」と思うほど大変でした。著書『しあわせ護心術』にも書いたのですが、骨盤が歪んでしまったからか、ひどい腰痛が続いたり痔で苦しんだりしました。 ほかにも、会陰切開をした部分が炎症を起こしたことも、帯状疱疹になったこともあって。帯状疱疹はお尻のほうまで出てしまったので、ゾンビのように床をはってトイレに行っていました。フィジカル的な痛みが一気に来てしまったけれど、日々は進むし、息子は育てないといけないし、本当につらかったです。
── 当時のご主人は、仕事柄あまりご自宅にいらっしゃらなかったんですよね。 近藤さん:そうですね。元夫はボートレーサーなので、家を不在にすることが多かったです。思い返すとワンオペという状態だったとは思うのですが、私はワンオペという言葉があまり好きではなくて。一方が息子のことをやって、その間にもう一方が別の何かをやるのは当たり前だと思っていたので、「元夫がいなかったから大変だった」と感じたことは一度もないんですよね。