バラエティー番組の元祖「光子の窓」とは? 90歳で現役バリバリの俳優・草笛光子さんに聞く【放送100年①】
俳優の草笛光子さん(91)は、2024年6月公開の映画「九十歳。何がめでたい」に主演するなど、卒寿を過ぎて芸能界の第一線を走り続けている。テレビやラジオにも数多く出演してきた。人気を集めたきっかけの一つは、テレビバラエティーの元祖といわれる「花椿ショウ 光子の窓」だ。どんな番組だったのか。日本で放送が始まって100年を迎えるのを前に、草笛さんに聞いた。(共同通信編集委員・原真) 【写真】幼なじみの松本人志さんに誘われた、高須光聖さん 「バラエティーの現在地」について聞くと… 「テレビが楽になってきた」 意外な言葉が飛び出した
▽ラジオで森繁さんと共演 草笛さんは1933年に横浜で生まれた。戦後の1950年、神奈川県立横浜第一高等女学校(現横浜平沼高校)在学中に、東京・浅草が本拠地の松竹歌劇団(SKD)に入る。兵庫県の宝塚歌劇団と人気を二分した少女歌劇団だ。草笛さんは「女優になりたいと強く思っていたことはない。何て言ったらいいか、今日まで、するするっと来ちゃった」と笑う。 入団後すぐに頭角を現し、舞台で活躍する傍ら、NHKラジオに出演する。当時はラジオの全盛期で、NHKの他に民放が各地で開局していた。草笛さんは1954年、音楽劇「東京ロマンス」で、人気俳優の森繁久彌さんと共演した。他にも、コメディアンの三木のり平さん、俳優の神山繁さんらと収録を共にした。 「音だけで演じる難しさもあります。でも、面白い方々ばかりでしたからね。楽しかった」と草笛さんは話す。 ▽度胸あるスタッフ 1958年5月、日本テレビで「光子の窓」が始まった。日本テレビの社史「テレビ夢50年」によると、ディレクターの井原高忠さんは、米国の人気番組「ペリー・コモ・ショー」を手本に、「幅広い層が読める雑誌」のような番組を目指した。
歌、ダンス、コント、トークの要素が詰まった、まさにバラエティー豊かな番組の主役に、誰がふさわしいか。SKD出身で、歌も踊りも芝居もこなす草笛さんに白羽の矢が立った。本人は「わー、重たいものをしょっちゃった、っていう感じでした」と振り返る。 番組のオープニングで、家の窓から顔をのぞかせた草笛さんが「窓を開けましょう」と歌う。スピーディーな場面転換で、流れるようにダンスやコントが続く。斬新な演出は一世を風靡(ふうび)した。 放送作家の三木鮎郎さんやキノトールさん、永六輔さんらが書いた台本も、個性的だった。「イグアノドンの卵」と題した1960年10月30日の放送は、テレビ自身をテーマにして、その影響力の大きさと危険性を指摘し、文部省芸術祭賞の奨励賞に選ばれた。草笛さんは「スタッフはみんな遊び人だったけど、度胸があった」と評する。 ▽やることがいっぱい ただし、主役は大変だった。歌手や俳優、歌舞伎役者、ダンサー、スポーツ選手ら多彩なゲストを相手に、スタジオに立ち続けなければならない。草笛さんは語る。