なぜ西武新宿駅はJR新宿駅からあんなに遠い? かつて存在した「隣接ホーム」計画とは? 延線が2度も失敗したワケと再び動き出した新計画
◆運輸省からの異例の免許 社長の堤康次郎を中心に事業立て直しを始め、同年8月、村山線の延長線として高田馬場~新宿駅東口間を申請する。 新宿界隈は戦災で焼け野原になるが、終戦直後から闇市が広がり、急速に街の規模が拡大し、鉄道ターミナルとしての重要度が高まっていた。また、村山線と山手貨物線を結ぶ貨物輸送ルートを確保したいという考えもあった。 当時、西武高田馬場駅では貨物取扱をしていなかったため、村山線から省線へ直通する貨車は中央本線国分寺駅経由の大回りを強いられていた。西武は1948年3月、高田馬場~新宿間の鉄道事業免許を受け、代わりに早稲田延長線の起業廃止の許可を得ている。 戦後まもない当時、都区内では東急や京成など私鉄各社が都心への地下鉄延伸線を十数路線も申請し、都庁や営団(運輸省)と対立していた。しかし、運輸省は西武の新宿延長線について問題なしと判断し、異例の免許となった。 都は新宿に旅客が集中しすぎる問題がある点を指摘し、地平線での敷設はしないよう要請している。ただ、反対していたわけではない。この背景には、千葉の鉄道連隊線の払い下げ問題があったとも指摘されている。 西武が同線を引き受ける話もあったが、最終的に京成が譲り受け、新京成電鉄として開業している。その見返りで、西武に新宿延長線の免許権、および連隊線のレールなど資材が与えられたという。 また、懸案となっていた旧西武新宿軌道線新宿~荻窪間の問題もあった。都は戦時中に旧西武から運行管理の委託を受けていたが、水面下で路線を譲り受ける協議をしていた。 その過程で、都と西武が互いに譲歩したのだろう。最終的に都が1951年に買収して都電杉並線となる。
◆現・ルミネエスト新宿に駅改札口の空間を確保 西武が1948(昭和23)年に提出した申請書によると、まず山手貨物線の東側に仮線を敷設して西武電車を新宿駅まで乗り入れさせるプランだった。その上で、山手線西側に新しい路盤と新大久保駅ホームを敷設して、山手線電車を移設させる。最終的に、西武が山手線敷地跡に新線を敷設した上で、山手貨物線東側の西武仮線を撤去する計画だった。山手線新大久保駅ホームを「西武大久保駅」に転用する案もあった。ただ、工事が大掛かりになることもあって実現はしていない。 翌年、西武は、高田馬場~青梅街道ガード下間2.1kmの工事施行認可を受けた。山手貨物線の東側に路盤を敷いて、歌舞伎町一丁目に仮駅を設けることにした。地権者と調整しながら、1952(昭和27)年3月に西武新宿駅が開業し、村山線改め新宿線の電車が乗り入れを始めた。 残るは、西武新宿駅~新宿駅東口間0.4km。西武は着工を望むが、関係当局から駅ビルの建設まで乗り入れを待つように勧告された。青梅街道沿いの一部で用地買収ができていないのも一因だ。 新宿ステーションビルディング社は1959(昭和34)年に設立され、国鉄系の鉄道弘済会、伊勢丹、高島屋と共に西武も出資者に名を連ねた。同社は東口広場に地上8階建ての商業ビルの工事に着手する。西武は1961年に国鉄と協定を結び、新駅の設計に入る。 ホームは新ビル2階部分の北側を予定し、1面2線で長さ143m。山手貨物線(現・埼京線)の敷地東側と新宿通りの空間を活用する。新ビルの1階と2階に駅改札、3階に駅長室が確保された。 新宿ステーションビル(現・ルミネエスト新宿)は1964年に開業するが、その直前、西武総帥の堤康次郎が急逝する。そして翌1965年、西武は取締役会で新宿駅東口延伸線の中止を決定し、3月に国鉄新宿駅~西武新宿駅間の起業廃止を行っている。 なぜ西武新宿線の国鉄新宿駅までの延伸は実現しなかったのか。西武は、当初、新宿 線は将来も6両で十分に足りると判断していた。だが、通勤客数は60年代に急増し、高田馬場駅の乗車客数は1960年6.8万人から1965年10.1万人と5割増となる。 1960年に6両運転を始め、1963年に朝ラッシュ時の運行本数を24本に増やした。近い将来の新宿線8両化は必至と考え、同年、新駅のホームを8両対応とする申請を行っている。 だが、運輸省は、ホーム先端部がかなり狭くなる設計を問題視し、乗降客の危険が多くて不適当だと指摘する。高田馬場など他駅で付属編成を分割する提案もあったが、西武は実務的に不可能と報告する。