《ブラジル記者コラム》南米で「戦争屋」と呼ばれた男=軍事独裁政権を支持したキッシンジャー
ラテンアメリカ諸国で軍事クーデターを組織した戦争屋
ブラジル最大の独立系ニュースサイトBrasil247は11月30日付で《戦争屋(Senhor da Guerra)でラテンアメリカのクーデターを組織したキッシンジャーは、ノーベル平和賞まで受賞》(1)と、その死に際して報じた。 日本や欧米ではどちらかといえば経歴の「功」の部分を中心に、「罪」を補足的に報じるというニュアンスを感じる。だがブラジルにおいては明らかに「罪」が強調する記事が多かった。なぜそうなるのか。いまだに彼の〝業績〟の負の部分が生々しく残っているからだ。
チリ外交官「深い道徳的悲惨さを隠なかった男」
南米の歴史においてキッシンジャーの「罪」が最も言及されるのは、計3千人以上の死者・行方不明者を出し、数千人の政治犯を拷問したチリ軍事独裁政権(1973―1990年)による左派弾圧と反体制派迫害を、彼が支持した点だ。 BBCスペイン語版5月27日付《ヘンリー・キッシンジャーが100歳に:ラテンアメリカで数千人の死者を出した「汚い戦争」を支持し、物議を醸したノーベル平和賞受賞者》(2)にはこうある。 《ラテンアメリカは、冷戦がしばしば熱い対立に発展した地域で、キッシンジャーの影響力を直接体験した地域のひとつである。(中略) たとえば、1970年にキッシンジャーが当時アメリカ大統領のリチャード・ニクソンに、チリの社会主義大統領サルバドール・アジェンデの民主的な選挙は「この半球でこれまでに直面した最も深刻な挑戦のひとつ」だと指摘していたことが、これらの文書からわかる。 キッシンジャーは、南米の国が「選挙で選ばれ、成功したマルクス主義政権」の見本になることを恐れ、CIAのリチャード・ヘルムズ長官に、「チリが(共産主義の)犬になる」のを(ワシントンが)防ぐと伝えた》とある。
11月30日付AFP通信によれば《キッシンジャー氏は1970年6月(アジェンデ大統領選挙前)、政府委員会で「自国民の無責任のせいで国が共産主義化していくのを、なぜ黙って見ていなければならないのか分からない。チリの有権者に自分で決めさせるには問題があまりにも重要だ」と語った》とある。 その国の国民の意思決定よりも、米国の国益を優先するという冷徹な発想がそこにはある。 さらに同記事には、《チリの外交官で元アジェンデ政府高官のフェルナンド・レイエス・マッタ氏は「キッシンジャーのチリへの執着は、社会主義ユートピア計画に向けて前進するためにアジェンデが選択した(民主的)道に対するものであった。この実験が成功すればイタリア、フランス、ギリシャなどの欧州諸国に広がる可能性がある」と語った》と分析されている。 その結果、民主的に選出された左派サルバドール・アジェンデ政権が1973年9月にCIA支援のクーデターで打倒され、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事政権が確立された。 だからヴェージャ誌サイト11月30日付は《「深い道徳的悲惨さ」:ヘンリー・キッシンジャーの死に対するチリ国民の反応》(3)という記事で、《(キッシンジャーの訃報に際し)フアン・ガブリエル・バルデス駐ワシントンチリ大使は、「歴史的輝かしさにもかかわらず、その深い道徳的悲惨さを決して隠すことができなかった男が亡くなった」と書いた。このメッセージは、外交官としては異例の厳しい口調であり、それがガブリエル・ボリッチ大統領によって共有され、キッシンジャーが数十年経った今でもこの国に引き起こしている深い不快感を明らかにしている》と書かれている。 つまり、左派ボリッチ大統領の怨念がこもった投稿共有だった。