ノンフィクション的視点でまとめ上げた「蔦重」の生涯 増田晶文『蔦屋重三郎』(レビュー)
日野原健司・評「ノンフィクション的視点でまとめ上げた「蔦重」の生涯」
蔦屋重三郎は18世紀後半に活躍した版元である。小説や浮世絵を出版する企画を立てたり、制作や販売を指揮したりする、江戸時代の出版界における辣腕プロデューサーであった。来年2025年にNHKで放送される大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の主人公となったことで、今、その存在が改めて注目されている。 蔦屋重三郎は吉原遊郭にあった小さな貸本屋から身を起こす。そこで出会った才能あふれる文化人たちとのネットワークを活用し、斬新なアイデアによる出版物を次々と刊行。江戸市中の話題となり、ついには大手版元へと成り上がる。松平定信による寛政の改革によって厳しい弾圧を受けるものの、それに屈することなく、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった歴史に名を残す浮世絵師たちの才能を発掘して世に出した。蔦屋重三郎がいなければ、江戸の出版文化、特に浮世絵の歴史は大きく変わっていたことであろう。 さて、本書は、蔦屋重三郎の生涯をたどりながら、さまざまな文化人との交流関係や、版元としてどのような活躍をしたのかを詳しく記した評伝である。 筆者の増田晶文氏は小説家であり、『稀代の本屋 蔦屋重三郎』(草思社、2016年。2019年に文庫化)という、蔦屋重三郎を題材とした小説をすでに執筆している。この小説は、蔦屋個人はもちろん、戯作や浮世絵、歌舞伎などに関する幅広いジャンルの学術的資料を踏まえた上で、版元としての業績を丁寧にたどっている。もちろん時代小説として、蔦屋重三郎がいかなる野望をもって出版界に立ち向かおうとしたのか、その内なる感情の掘り下げも忘れていない。 今回の書籍は、時代小説を執筆した際の調査成果を活用し、歴史的な評伝という視点で蔦屋重三郎の生涯をまとめたものである。増田氏は江戸時代の文学や美術を学術的に研究する専門家ではないため、独自に調べた文献資料に基づく客観的な新事実というものは特に記されてはいない。だが、蔦屋重三郎の生涯を語る上で必要となる学術的な研究成果をほぼ反映している点は高く評価すべきだろう。 実は、蔦屋重三郎の業績を網羅的に語ることは、専門家でも難しい。というのも、蔦屋が刊行した出版物の価値を判断するためには、彼個人のこと以上に、戯作者や浮世絵師といった作り手のことを深く知らなければならないからである。しかも、関わりがあった人物をざっと列挙しただけでも、山東京伝や大田南畝、曲亭馬琴といった戯作者や、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎といった浮世絵師など、ネームバリューの高い人物ばかり。それぞれに膨大な研究成果があるだけではなく、彼らは相互に交流しており、その人間関係をひもとくことも容易ではない。増田氏は、それらの膨大な資料を交通整理し、蔦屋重三郎の仕事の成果を分かりやすくまとめている。蔦屋重三郎に関する学術的な研究の現状を把握したいという人にとって、本書はまたとない入口となるだろう。 また、蔦屋重三郎の業績を考えるためには、当時のさまざまな社会的な環境を把握しておかねばならない。すなわち吉原遊郭や狂歌ブーム、黄表紙、寛政の改革、浮世絵版画、歌舞伎といった、まさしく江戸文化の基礎知識が必須となってくる。本書では、これらの情報について概要のレベルから分かりやすく紹介しており、江戸文化の初心者にとってはありがたいところである。 さらに本書の特色となるのが、蔦屋重三郎の生涯をノンフィクションのようにまとめている点である。実は、筆者の増田氏は小説だけでなく、スポーツ選手や教育、日本酒など、さまざまなジャンルのノンフィクションを幅広く執筆している。 本書は学術的な資料からだけでは解明できない点、すなわち、蔦屋重三郎がどのような思考をめぐらせながら出版物の企画を考え、難題に立ち向かっていたのかということについて、想像を自由にめぐらせながら筆を進めている。しかしそこに突飛さを感じさせないのは、筆者が蔦屋重三郎やその関係者たちに面と向かって取材するかのように歴史資料と向き合い、そこから聞こえてくる声を丹念に拾い集めようとしているからだろう。 本書は小説家とノンフィクション作家という、二つの異なる顔を持つ筆者だからこそまとめ上げることのできた蔦屋重三郎の評伝と言える。もし蔦屋重三郎という人間の内面をさらに深く覗いてみたいのであれば、増田氏の時代小説もあわせてお読みになることをお勧めしたい。 [レビュアー]日野原健司(太田記念美術館主席学芸員) 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
新潮社