なぜ家康は年少の秀忠を後継者として育てたのに、秀康とは対面すらなかなか果たさなかったのか…僕が出した極めてシンプルで残酷な<答え>
松本潤さん演じる徳川家康がいかにして天下統一を成し遂げたのか、古沢良太さんの脚本で描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第47話は「乱世の亡霊」。茶々(北川景子さん)の妹・初(鈴木杏さん)と阿茶(松本若菜さん)が話し合い、和議が成立。しかし戦を望む者たちは大阪城に集まり続け――といった話が展開しました。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が気になるあのシーンをプレイバック、解説するのが本連載。今回は「後継ぎ」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし! 関ヶ原時点で59歳だった家康。豊臣家を滅ぼすのに「15年」もかけた理由とは? * * * * * * * ◆いよいよバトンは次の世代へ 次回で最終回を迎える『どうする家康』。 ここまでさまざまな苦労を乗り越えてきた家康ですが、亡き妻・瀬名姫に誓った「天下人になり、戦のない世を作る」という夢をついに果たし、いよいよバトンを次の世代に渡す時がきたようです。 「後継ぎ」。現在でもとても重要なテーマです。「世襲」が強力な原理として機能していた時代に、権力や財産のある武家は、どうやって後継者を決定していたのでしょうか。 儒学では、人間の徳として「孝悌」を強調します。「孝」は「親孝行」。親に尽くすことですね。一方で、「悌」はなんともヘンテコな表現になりますが、「弟らしくすること」。弟が兄に対して礼を尽くすことなのですが、「親孝行」のような熟した言葉がないことでも分かるように、兄への謙譲は、日本社会では中国ほどは根付いていないようです。
◆源頼朝は三番目の男子だった これを「後継ぎ」問題に落とし込むとどうなるか。 儒学は古代日本にも影響を与えていましたので、兄弟がいたら「長子」が重んじられる風はありました。一番上のお兄さんが家を継ぐ。その事例は枚挙にいとまがありません。 けれども日本史では「お母さん重視」の事例も多く見られます。例えば源頼朝。彼は父の義朝にとって三番目の男子でした。 でも、お母さんが貴族だったので(上皇の近臣でもある熱田大宮司家のお嬢さん)、義平・朝長の2人の兄を差し置いて、生まれたときから「後継ぎ」として育てられました。 一夫多妻であるときには、「正室」の存在も重要になってきます。藤原道長やいま記した源義朝の場合には、複数いる妻のうちで「だれが正妻か」という意識は希薄です。「だれが一番、格式のある家の出身か」と妻たちを比較することはあっても、「この人が正妻」という決定がハッキリと示されることはなかったと思います。
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