なぜ家康は年少の秀忠を後継者として育てたのに、秀康とは対面すらなかなか果たさなかったのか…僕が出した極めてシンプルで残酷な<答え>
◆ぼくの考え そこでぼくの考えですが、シンプルでいて、少々残酷。結局のところ、家康は秀康生母の永見氏を「ちゃんと愛していなかった」のではないでしょうか? いまでいう「ワンナイト」で子どもができた、という。 現在の感覚からすれば「最低」と罵られるのは避けられませんが、「あの晩にできた子どもを後継人に、とはなあ・・・」というのが正直なところで、だから生まれてきた子にも愛情をもてなかった。 一方で西局には「あなたを一生、大切にする。もちろん、生まれた子も」としっかり愛したうえで子どもに恵まれた。だから生まれた子も後継者に定めて、大切に育てた。そんなところではないでしょうか。 秀忠がなぜ「後継ぎ」に立てられたのか。いまぼくが書いたのは、まったく「これ!」という文献資料のない、論理上の仮説です。参考にできるのは、個別の史実のみ。ですから、研究者も、そうでない方も、同じスタートラインに立って、議論ができます。皆さんのご意見を是非、お聞かせ下さい。
本郷和人
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