怪我さえなければ…。日本の「ガラスの天才」(2)もう膝が限界…。32歳で引退決断、史上最高のDF
サッカー選手は常にケガと隣り合わせだ。たった1つのケガでキャリアを棒に振ってしまう選手もいれば、何度も大ケガを負いながらもその逆境を乗り越えて長く活躍する選手もいる。今回は最高級の才能を持ちながらも、ケガに苦しむキャリアを歩んだ“ガラスの天才”をピックアップして紹介する。
DF:内田篤人 生年月日:1998年3月27日 日本代表成績:78試合2得点9アシスト 内田篤人は、日本サッカー史上でも最高峰の右サイドバックとされるが、もしケガがなければ、さらに大きな名声を得ていたかもしれない。 2006年に鹿島アントラーズでプロキャリアを始めた内田は、クラブ史上初の高卒ルーキーとしてJリーグ開幕戦のスタメンに抜てきされ、すぐにレギュラーの座をつかんだ。俊敏な動きと高いテクニックに加え、冷静な判断力で攻撃にも的確に参加し、多くの試合で違いを生み出し、2007年からJリーグ3連覇を達成した。 2010年夏にシャルケに加入すると、ドイツの名門クラブでもすぐに定位置をつかんだ。2010/11シーズンはUEFAチャンピオンズリーグ(CL)でも活躍し、準々決勝では長友佑都を擁するイタリアのインテルと対戦。CL史上初の日本人対決が実現し、内田はシャルケの準決勝進出に貢献した。日本人選手のCL準決勝進出は史上初の快挙だった。 しかし、その後ケガに苦しむことになる。2014年2月、ブンデスリーガのハノーファー戦で右ひざ裏の腱を痛めて長期離脱。FIFAワールドカップ(W杯)を控えていたため手術は回避し、保存療法を選択したが、同年7月に右ひざの前の腱、膝蓋腱の炎症を起こす。 膝を酷使するスポーツ選手に起こるケガであることから「ジャンパー膝」とも呼ばれ、完治が難しいことが多い。内田も離脱を繰り返すようになり、2015年5月に手術に踏みきった。 約1年半の長期離脱を経て復帰したが、かつての調子を取り戻すのに苦労した。キャリア晩年はひざをかばう代償動作からくるものなのか、筋肉系の負傷も繰り返し、32歳という若さで現役を引退した。 ヨーロッパで活躍し、日本代表として78試合に出場した内田は、十分な実績を残したと言っていい。それでも、もしケガがなければ、どのようなキャリアを送っていたのかは気になるところだ。
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