「男だったら関白にしたのに…」秀吉が溺愛した養女・豪姫の「悲運」とは?
豪姫は、前田利家の四女として生まれ、秀吉の養女となり、宇喜多秀家の正室となった女性である。利発な彼女を秀吉は溺愛し、「男だったら関白にした」という言葉まで残していた。しかし、「関ヶ原の戦い」で夫・秀家が西軍につき、敗北。息子ともども流罪にされてしまった。 ■「もしも男だったら、関白にしたのに…」 「もしも男だったら、関白にしたのに…」 天下人となった秀吉が、ため息交じりにその才を惜しんだのが、秀吉の養女・豪姫であった。幼い頃より利発で男勝りだったというが、彼女可愛さに、相好を崩す秀吉の姿が、目に浮かびそうである。 父は、信長の家臣であった前田利家、母は従兄妹・まつで、その四女として生まれたのが豪姫である。彼女もまた、一家安泰のための道具として、子のいなかった秀吉の元へ養女として送り込まれた女性であった。それでも秀吉はもとより糟糠の妻・寧々も、我が子同然として扱い、可愛がりようも半端ではなかった。それだけは、幸いだったというべきだろう。 秀吉には豪姫のほかに、宇喜多家から養子として送り込まれていた秀家がいたが、この二人を夫婦として結ばせている。秀家17歳、豪姫15歳の時のことであった。もちろん、政略結婚であることは間違いないが、二男一女(二男二女だったとも)をもうけるなど、その仲はむつまじく、幸せな日々が続いていたようである。 ■食うにも事欠くような厳しい生活 しかし、その幸せも、戦国の世の習いか、ほんの束の間のことであった。関ヶ原の戦い(1600年)において、秀家が西軍に与したからである。敗戦後、宇喜多氏は改易。秀家は薩摩へと逃れたものの、結局、家康に引き渡されてしまった。 本来なら死罪に処せられるのが順当であったが、豪姫はもとより、その兄・前田利長や、薩摩藩初代藩主となった島津忠恒までもが助命を必死に訴えかけたことで罪一等を許され、八丈島への流罪となったのである。 1606年、秀家は二人の息子と共に八丈島へと流されていった。妻・豪姫とは二度と会うことができなくなってしまったのである。島へと流された3人を待ち受けていたのは、食うにも事欠くような厳しい生活であった。 代官から振舞われた握り飯を、一つだけ自分が食べて、残りは息子たちのために持ち帰ったこともあったとも伝えられている。その状況を聞き及んだ豪姫はすぐに幕府と交渉して、定期的に食料などを送り続けたとか。そして、自身は金沢へと移り住み、61歳に至るまで再婚することなく、ひっそりと暮らし続けたと言われている。 二人が別れてから400年近くも過ぎた1997年のこと、秀家らが流された八丈島の海岸(南原千畳敷)に、秀家と豪姫が雛人形のように仲良く並ぶ石像が立てられた。視線の遥か先は、秀家の故郷・備前岡山なのだとか。生きて帰国することはできなかったものの、豪姫が望んでいた夫との再会の願いは、数百年ぶりに叶えることができたのである。 話はまだ続く。この豪姫を語る上でもう一つ忘れてならない、とある逸話にも触れておきたいからだ。