《ブラジル》妻や同僚との出会いに恵まれ USP教授務めた戦後移民の自分史(上)
〝神々しい〟家庭に育った女性とお見合い?
早速明けてみると、母の知り合いから、私の将来の伴侶として一女性を紹介され、彼女の履歴書、並びに何枚かの見合い写真が同封されていた。勿論、私も興味があったので、写真は兎も角、早速履歴書を見たが、女子専門学校卒業と共に、家族の紹介があり、それには父方の祖父は明治神宮宮司、又、母方の祖父も伊勢大神宮の大宮司と有り、まるで〝神々しい〟家庭に育ったとあるではないか。 こういう女性には、日本にでこそより幸せに過ごせるチャンスが大きく、この地球の反対側の田舎町であるピラシカーバで、共に日本よりも幸せな家庭を築く自信や保証は私には皆無であった。 こういう理由で、私はキッパリと断わりの返事と共に書類写真をすぐに丸々母に送り返した。私は、これで今回の写真によるお見合いには完全に終止符が打たれたものと信じて居た。 その後、研究は国際原子力機構(Internationa Atomic Energy Agency、IAEA)からの研究費援助も有って順調に進み、その分野での学会が1965年に台湾の台北で開かれることになり、私もブラジル代表として招かれた。今でもそうであろうが、当時はブラジルから台湾に行くには、日本の羽田経由が最も便利であった。これは私にとっては好都合で、ブラジル移住6年にして、早くも訪日のチャンスが訪れたことになり、私の父母も大満足であった。
特に信仰心のあつい母は、私がはっきりと断った、あの〝神々しい〟家庭に育った女性に未練があったらしく、その縁談を持ってきた友人から、その女性は未だに独身であることを聞いて、私には内緒でどこかでのお見合いを考えて居たに違いない。東京では、ごく短い滞在期間ではあったが、母の強引な説得で、殆ど気も進まなかったが、既にキッパリと断ったその女性と会うことになった。 適当な見合い場所が見つからなかった所為か、見合い場所は東京の原宿の改札口を出た所で、そこで一応自己紹介後、その後近くの喫茶店で二人がゆっくりと話すと云うことにしていたようだ。私は言われたまま、改札口を出た所で、その女性と同伴の彼女の母の二人に自己紹介をして、やがて近くの喫茶店で二人で話をすることになった。 座って何か飲み物をというときに、手に取ったメニューにあるガラナという文字が目に飛び込んで来た。私は、1959年ブラジル移住時、サントスに上陸前、船がリオに寄港したおり、リオ在住の友人の案内でコルコバードのキリスト像を見に行ったが、その折、喉が渇いたので飲み物を注文、出てきたのがグアラナで、世の中にこんな旨い飲み物があるとは…と思ったぐらいに気に入った。