《ブラジル》妻や同僚との出会いに恵まれ USP教授務めた戦後移民の自分史(上)
ブラジルに来るに当たっては、ブラジルの教育分野で身を立てることなどとは全く夢にも思って居なかったものの、このニュースには大いに心が動き、ピラシカーバのESALQを訪ねることにした。 ピラシカーバは、バスで着いてみると、緑に包まれた静かな、学校の多い教育盛んな町であり、大学は、敷地面積が1千ヘクタールもあって、その中に飛行場、動物園、植物園なども有るとのこと、日本の大学では有り得ないその広さには全く度肝を抜かれた。 大学について、すぐに遺伝学科主任教授に面会を申し込み、幸いにすぐに部屋に通された。この主任教授は、昔ナチスから逃れて来た有名な統計遺伝学者でもあったし、原子力の平和利用には大いに関心が有り、遺伝学科でのこれからの新しい研究分野に関してはお互いに共鳴する点が多くあった。
出会いに恵まれ、とんとん拍子に研究・教授職に
こうして一応面接には問題はなかったと思われ、私もこの教授のもとで、日本からの研究を続けても良いと思うようになった。間もなく、当時は学科内のすべての人事に権限のあったサンパウロ大学カテドラチコであるこの学科主任から、遺伝学科の特別研究員への任命通知が有り、1960年10月から、横浜を出るにあたっては、想像だにして居なかったサンパウロ大学ルイスデケイロッス農科大学での研究職に就いたが、間もなく教職も兼ねる事になった。 大学での生活は、多くの友人にも恵まれ、すべて快適であった。やがて、農業分野での原子力の平和利用に関する研究分野をすべて統合した研究センターを設立する動きが大学内に始まり、私もこれには微力ながらも全力を挙げて参加し、こうしてサンパウロ大学内に、CENA(Centro de Energia Nuclear na Agricultura )が誕生して、その中には放射線遺伝学研究室も設けられ、程なくブラジルでは唯一のコバルト―60放射線照射装置も設置されて、今後のこの分野での研究に大きな役割を果たすことになった。 ブラジルは、年間1千万トンのコメを産出する、ラテンアメリカでは唯一の米食国家であるし、熱帯から亜熱帯、温帯にわたる実に数多くの有用植物が存在して、原子力放射線による突然変異育種の研究材料には事欠かなかった。 ブラジルに到着以来、既に5―6年は経過しており、生活が安定するにつけて、身を固める必要性が増したが、これは本人よりも周囲の人々の意見の方が強かった。1964年のある日の事、日本の東京住まいの母から、可成り分厚い郵便が届いた。