日本初の衆院解散「伝家の宝刀」抜いたのは薩摩出身・松方正義 同郷の大臣暴言引き金に議会空転 「もはや時機切迫に立ち至り最後の手段を」…書簡ににじむ苦渋の決意 黎明館に展示中
石破茂首相が9日、衆院を解散した。首相の権限で「伝家の宝刀」とも呼ばれる解散カードを憲政史上、最初に使った首相は薩摩出身の松方正義だ。薩摩閥大臣の暴言で窮地に追い込まれた末の「最後の手段」だった。鹿児島市の黎明館で開催中の企画特別展「没後100年 松方正義」(11月4日まで)には覚悟を決めた松方が書いた書簡が展示されている。 【写真】松方正義(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載)
松方が衆院を解散したのは、第1次政権時の1891(明治24)年12月25日。帝国議会開設から1年たったばかりだった。前年の第1回総選挙で野党の民党が過半数を占め、政府側の吏党は少数与党だった。 両党は激しく対立し、民党は政府予算案を認めず減税を要求。海軍の予算拡張が認められずにいらだった薩摩出身の樺山資紀(すけのり)海軍大臣は22日の国会で「現在の日本があるのは薩長のおかげ」と放言する。いわゆる「蛮勇演説」で、一斉に非難を浴び議会が空転。松方は解散を選択して打開を図る。 前政権でも検討されながら見送られていた初めての解散は重い決断だったようだ。黎明館で展示中の書簡では、演説があった日の深夜、松方が薩摩閥の実力者、黒田清隆宛てに「もはや時機切迫に立ち至り」と緊迫した情勢を報告。「最後の手段」を話す閣議を明朝開くと伝え、その前の面会を求めている。 総選挙は92年2月15日に行われたが、政府は地方官や警察を使った演説妨害などの選挙干渉を実施。各地で衝突が起こり、全国で死者25人、負傷者388人が出たという。鹿児島県内でも川辺や栗野、串木野などで暴力沙汰や有権者の連れ去りがあった。それでも吏党は過半数を確保できず、選挙干渉の責任を追及された松方内閣は同年8月、総辞職に追い込まれた。
日本大学人文科学研究所の荒船俊太郎研究員(日本近現代史)は「国会のない時代に予算を成立させてきた松方は国会論議を甘く見ていた。解散で多数の確保を目指したが、力でねじ伏せる稚拙な手段を取ってしまった」と話した。
南日本新聞 | 鹿児島
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