「斎藤知事の言動は“公開パワハラ”だ」兵庫県議会の百条委で奥山教授が鋭く指摘した全文を掲載(前編)
感情に駆られた県のトップによる「公開パワハラ」
先週金曜日(8月30日)のこの場での証人尋問で、斎藤知事は、3月20日に告発文書を初めて目にしたときのことについて、「大変ショックで、なんでこういった文書を作るんだろうっていう本当に苦しい思いがありました」と振り返りました。そして、その文書を作成したのが西播磨県民局長だと知ったときには「本当に悔しい辛い思い」があったと明かしています。「どうして同じ仲間で一緒に仕事してた人がこういう文書を書いてまいたんだろうという本当に悔しい辛い思い」があったと説明しています。 3月27日の記者会見で前西播磨県民局長に浴びせた「公務員失格」との言葉は、「その悲しい辛い思いから、やはりああいった表現ということをさせていただいた」とも認めています。 これらの知事の説明は、個人的な感情に突き動かされた末に3月27日の記者会見での、あのような言動に及んだことを認めるも同然だと私には思えます。 人間ですから、そのような感情になるのは致し方ありません。それだけなら責められるべきではありません。しかし、だからといって、そういう感情に駆られて、県の行政府のトップである権力者が公の場で部下の1個人に対していわば公開パワーハラスメントに及ぶ、ということは許されません。
知事と取り巻きは判断から身を引くべきだった…「独裁者の粛清」のような構図に
先週金曜日の証人尋問で斎藤知事は「誹謗中傷性の高い文書だというふうに私、県としては認識しました」というふうに述べました。「私として認識」と言いかけて、「県として認識」と言い換えています。 しかしながら、この場合、“私”である斎藤元彦さん個人と、行政機関としての“県”を同視することはできません。行政機関としての県ならば、悔しかったり悲しかったり辛かったりすることなく、そういう感情を抜きにして、バイアスなく冷静にあの文書を見定めなければならない。そのような態度が可能な人は、告発文書でやり玉に挙げられている知事や副知事や総務部長ではなく、独立性と客観性を備えた第三者だけです。 県が「誹謗中傷性の高い文書だ」と認識してしまい、そこからすべてをスタートさせることになった理由は、そのまさに「認識」の担い手が、文書の内容と無関係の第三者ではなく、斎藤知事自身やその取り巻きの副知事、総務部長ら、あの文書で告発の矛先を突き付けられている当人たちだったからです。 それに加え、文書が広く流布されたときに備えてその信用性を貶めようとする意図、内部告発が他の職員に連鎖することのないように見せしめにしようとする意図も混在していた可能性が高いと私は推測しますが、今般の県当局のふるまいの最大な要因は、知事をはじめとする被告発者の人たちの怒りだったのだろうと思われます。 本来ならば、そういう人たちは、あの告発文書に関する県行政としての判断への関与から身を引くべき、忌避するべきでした。なのに、それと真逆の行動を選んだ、だから、冷静な対応ができなかった、まるで独裁者が反対者を粛清するかのような陰惨な構図を描いてしまった、そう思われます。