「海岸芸妓」に謎のM旅館……東京のウォーターフロント《大森》《森ケ崎》を賑わわせた花街の記憶
海岸の料理旅館
高橋が訪れた当初(つまり大正3年の春に)は、「まだ此の海岸が埋め立てられる前のことで、私の借りた座敷の縁下には、ぢャぼん、ぢャぼんと波が打つてゐた」。それから25年をすぎる頃には埋め立てが進んで、海岸に面した料亭の「縁側へ出ても、もう、石垣を打つ小波の音は聴かれなかつた」というほどに変貌する。変わったのは、なにも海岸ばかりではない。 高橋は冒頭で「M旅館」と実名を伏せ、「此の辺の旅館は、どこも皆んな料理屋兼業」であるとし、芸妓が入ることを強調する。さらに、「大森海岸の料理旅籠屋」、「料理屋兼旅館」と言い方を少しずつ変え、最終的には「土地一流の料理店」と位置づけるにいたった。7年ぶりにMを訪れた彼は、昔の面影をすっかりなくした建物の「立派さに驚かされ」つつ、「部屋数も三倍位にはふえたであらう」とみる。 それから16年後に訪れた際には、「座敷の数は前よりもまたふえ」、「景気は素晴らしく」よかった。大正・昭和戦前期を通じて、かつての面影をとどめないほどにMは料理旅館として大規模化していく様子がうかがわれる。 かつて、品川区南端の三業地《大井海岸》から《大森海岸》にかけては、著名な料亭が建ち並んでいた。図からもわかるように、《大森海岸》と《大井》とはひとつらなりの花街とみなしてよい(松川二郎「大東京五十六花街」)。 小町園・悟空林は《大井海岸》の代表的な料亭であり、戦時中は海軍の寮に転用され、空襲の被害をまぬかれたことから、戦後は進駐軍向けの慰安所に指定される。昭和10年に開業した悟空林は、敷地いっぱいに建てられた一部3階建て4棟の建物に、客室・広間・ホールなどが約20室あり、その複雑な間仕切りによって、廊下はまるで迷路のようであった(『朝日新聞』昭和44年12月11日)。これもまた、M旅館のごとく、増築に増築をかさねた結果だったのだろう。
土地の記憶
わたしが羽田空港から《穴守》、《森ケ崎》、《大森新地》と歩き継いで、はじめて《大森海岸》を訪れたとき、巨大な木造建築が目に飛び込んできた(図)。この建物が、M旅館はまちがいなく《大森海岸》にあったという、なかば確信めいたものをわたしにいだかせたのである。いびつな三層構造は、時期をたがえて建て増ししたことを物語る。 かつての料理屋とおぼしきその建物は、マンションに埋もれるようにたたずんでいた。《大森海岸》の栄華をつたえる最後の残照などと思いながら、あらためて新聞記事を検索してみると、とても興味ぶかい記事がヒットした。 「「消える海辺の名物料亭」 大田区の大森海岸にアサクサノリをとる篊が立ち並んでいた昭和の初めに建てられた、海べりの料亭「福久良」(大森本町一丁目)が改装のため取り壊されている。江戸前のカニの料理が売りものだったが、何しろ造りが古く、冷暖房のききも、もうひとつ。来年秋には、ホテル兼料亭の近代ビルに生まれ変わる。大森海岸料亭街の古い町並みも、これでほとんどなくなった。」(『朝日新聞』昭和58年6月12日東京23区版) 昭和12(1937)年ごろに建築されたというこの料亭は、「木造建築としては相当大きく、二階建て(一部三階)で約二千五百九十平方メートルもあって、大森海岸の料亭街の中でも威容を誇っていた」という。その「福久良」が取り壊されたことで、料亭の建ち並ぶ《大森海岸》の面影はすっかりなくなった。 それから20年あまり、福久良や悟空林のような規模はないにせよ、写真にある古い建物ひとりがこの街の来し方を語っていたことになる。それも、2年後(2004年)に訪れたときには跡形もなく消えていた。とはいえ、国道15号をはさんだ《大森海岸》の向かいに鎮座する磐井神社を訪れてみると、そこには花街の記憶をとどめる名が刻まれている(図)。 (『花街』より) 全国の「花街」の記憶を辿る旅はこちらから! 【鳥取】「“駅前遊郭”《衆楽園》 風紀取締りの厳重な鳥取の城下町に生まれ、消えた、遊蕩の巷」 【富山】「明治維新で「殿様御殿」は“不夜城”に様変わり! 富山藩主別邸《千歳御殿》の辿った運命とは」 【鹿児島】「「墓地」と「花街」の奇妙な関係 不吉な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発」
加藤 政洋(立命館大学教授)