「海岸芸妓」に謎のM旅館……東京のウォーターフロント《大森》《森ケ崎》を賑わわせた花街の記憶
尾崎士郎の述懐
尾崎の『京浜国道』(昭和32年)には、彼自身の交遊の背景として、品川から横浜にいたる東京湾岸の花街が描かれ、ある種の風俗文学としても読むことができる。「寿々元」に泊まり込んだ経験を持つ尾崎は、戦後、愛惜の念をこめて《森ケ崎》を回想した。 「銀座裏の酒場やダンスホールから、あふれだした客が女給をつれて、やってくる場所は鈴ケ森の砂風呂か、海づたいに左に一里ほどそれた埋立地に、一廓をつくりあげている森ケ崎ときまっていた。 都心をはなれた森ケ崎は、海にそって防波堤があり、その前に大きな養魚場があった。周囲はことごとくポプラの林にかこまれて、五十軒にあまる鉱泉旅館が堂々たる構えをつらねている。ここに住む芸妓の名前も一種独特で、「メロン」とか「ヨット」とかいう奇妙な源氏名が多かったが、何となく野趣をおびた生活が土地の環境とぴったり結びついているせいでもあろう。ここまでくると、「ヨット」も「メロン」も若々しく、海風にあおられるポプラの林の中にうねうねとつづく小径を、客の男と手を携えながら忍び歩きしている彼女たちの姿を私は今でもありありと思いだすことが出来る。ああ、十年一覚すれば、ことごとくこれ楊州の夢である。」 大森海岸一帯で大規模な埋め立て工事が進行し、漁村にかわる新しい街ができ、いつのまにか鉱泉旅館街へと変じたのが大正初年、その頃はどの家にも釣り堀があり、釣り客向けの宿の域を出なかった、というのが尾崎のみた《森ケ崎》の成り立ちである。 それが、「つれ込み専門の鉱泉街になったのは、関東大震災の直後」で、その頃になると「もう釣り堀専門ではなく、雑木の繁みから風をつたって三味線の爪弾きの音が聞えてきたり、竹藪の中のほそ道から湯道具を抱えた若い芸妓のなまめかしい姿がちらちらとうかびあがるようになった」。《森ケ崎》が「時代の表面にうかびあがってきた」背景には、大森海岸の砂風呂で遊びあきた男たちが河岸を変えて手軽に飲みなおすことができるという評判がたったからであるという。砂風呂とは、これもまた「つれ込み宿」、すなわち「東京から女づれでやってくる遠来の客を迎えるための『温泉マーク』の一種」であり、彼もまたこの砂風呂を利用していた。「 」(通称「サカサクラゲ」)であるとはいえ、いずれも料理屋を兼ねる旅館で、「粋人雅客の休養場として、ことに浅酌低唱に好適」であった(『大森区史』)。 しかし、大正11(1922)年5月31日をもって新規の出願が認められなくなったことから、じょじょに料理屋などへと変わり、昭和10(1935)年をすぎる頃にはその姿を消していた。《森ケ崎》の芸妓屋が同じ大正11年5月に許可されたことを考えると、なんらかの風俗警察的思惑が作用していたにちがいない。 《森ケ崎》の発展要因は、それだけではなかった。尾崎は、震災後に復興院総裁であった後藤新平が京浜国道を開通させたことも大きかったと指摘する。人力車に代わる「円タク」の隆盛もあいまって、十数軒の宿も「たちまち五十軒以上にふえ、この土地特有の鉱泉芸妓の存在が時代的な色調の中に生彩を発揮」しはじめた。 彼の記憶するところでは、「この森ケ崎が、もっとも殷盛を極めたのは太平洋戦争の勃発する数年前」である。当時、組合に所属する料理旅館は13軒、8軒の芸妓屋に28人の芸妓が抱えられていたので、「五十軒以上」という尾崎の表現は誇張にすぎるかもしれない。芸妓の源氏名も初江、おはん、富次といたって普通で、「ヨット」や「メロン」などといったカタカナ名はみられなかった。