「海岸芸妓」に謎のM旅館……東京のウォーターフロント《大森》《森ケ崎》を賑わわせた花街の記憶
M旅館の謎
話をいったん《大森海岸》にもどそう。経済学者にして古典芸能にも精通した高橋誠一郎は、自身の随筆集『大磯箚記』に「大森海岸」と題する文章を収めている。 書き出しは、こうだ。 「私は明治四十四年、欧州留学中に病を得て、大正元年日本に帰り、湘南の各地を転々して病養に専念して居つたのであるが、翌々三年の春、母校の理財科及び法科で一週五時間の講義を担任することになつたので、伊豆の温泉場や相模の海岸から汽車で通ふのも臆劫だし、さればと云つて、埃りつぽい東京の空気の中に棲むのも嫌やだし、と云ふ訳で、大森海岸のM旅館の一室を借りることにした。 まだ此の海岸が埋め立てられる前のことで、私の借りた座敷の縁下には、ぢャぼん、ぢャぼんと波が打つてゐた。此の辺の旅館は、どこも皆んな料理屋兼業である。従つて芸者のはいることもある。」(高橋誠一郎「大森海岸」) 大正3(1914)年春の「病養」をきっかけに、その後四半世紀にわたって接点をもつことになるM旅館の盛衰を、高橋は経営者親子の二代にわたる物語として書き綴る。芸妓の出先となる料理旅館を舞台としているだけに、まるで定点観測でもするかのように、当時の花柳街の一端が垣間みられて興味ぶかい。 その内容以上にわたしの関心をこの文章に惹きつけさせたのは、ドイツ文学者・種村季弘の随筆「森ヶ崎鉱泉探訪記」だ。というのも、氏が森ケ崎を探訪する出発点となったのが、まさにこの高橋の随筆「大森海岸」だったからである。 「浮世絵研究家の高橋誠一郎(当時慶応義塾経済学部教授)が大森海岸のM旅館で長逗留していた折の随筆を読んでいたら、どうも森ヶ崎と思しい土地が出てきた。正確な地名は伏せられて「大森の花柳界」とだけあるが、まず十中八九森ヶ崎の二業地のことだと思われる。」(種村季弘『江戸東京《奇想》徘徊記』) 「正確な地名は伏せられて『大森の花柳界』とだけある……」というのは誤りで、高橋自身は「大森海岸の花柳界」と明示している。また、タイトルに使われている「大森海岸」は、当時一般に知られた海水浴場の名称であり、三業[芸妓置屋・料理屋・待合茶屋]の正式な組合名称、つまり花街名でもあった。 種村は、なぜ「大森海岸」の舞台を「十中八九森ヶ崎の二業地」と推定したのだろうか。明確な根拠は示されていない。氏は十中八九と信じて《森ケ崎》を探訪するものの、わたし自身は随筆に描かれた「大森海岸」を《大森海岸》そのものと考えている。わたしなりの根拠をいくつか示してみよう。 まず、高橋自身が「大森海岸」と明示していることである。当時、「大森海岸の花柳界」といえば、《大森海岸》の三業を指したことは疑いえない。次いで、高橋はMに芸妓が入るものの「土地の芸者は断じて泊ることを許されなかつた」としている。これは大正初期のことで、その頃はまだ《森ケ崎》に芸妓はいなかった。 さらに、高橋は「特別の目的をもつた客や芸者は、皆んな、早くここを切り上げて鈴ケ森辺の砂風呂へしけこんだ」と言葉を足す。「特別の目的」をもった男女が、京浜電車沿線の鈴ヶ森・浜川・立会川方面に建ち並ぶ連れ込み宿の原型ともいうべき「砂風呂」に移動することを考えると、《大森海岸》の方が格段に便利であろう。また、尾崎士郎も指摘していたように、京浜国道沿線の砂風呂に取って代わるように隆盛したのが、《森ケ崎》の鉱泉旅館であった。《森ケ崎》から鈴ヶ森の砂風呂に、わざわざ河岸を変える必要などあるまい。 高橋はこうも述べている。「最も足しげく此の家を訪れる景気のいい嫖客は、畑や田圃を宅地に売った馬込辺の百姓達であった」、と。たしかに作家たちは、わざわざ馬込の「文士村」から創作のために《森ケ崎》を訪れていた。けれども、土地の農家の旦那たちまでもが遠出をしただろうか。すぐ目の前に花街があるというのに……。 もうひとつ、決定的な根拠となるのは、関東大震災で自宅を焼失した高橋が「再び大森辺の宿屋」を求めた際、彼はまず大森海岸を山手に入った「望水楼ホテル」にあたりをつけていることである(「望水楼」は「望翠楼」の誤りか)。客室40室、全室に風呂と便所を備えた「一切純洋式」のホテルゆえ、すでに「横浜の焼け出され外人でいツぱい」であったことから、しかたなく彼は「海岸のむかしの宿へ照会」し、7年ぶりにMに落ち着くところとなった。「望翠楼」とMの位置関係に関する高橋の記述は、《森ケ崎》ではなく《大森海岸》を指していると思われる。