「海岸芸妓」に謎のM旅館……東京のウォーターフロント《大森》《森ケ崎》を賑わわせた花街の記憶
森ケ崎鉱泉の発見
《大森海岸》の南方には、新興の《大森新地》のほかに、明治32(1889)年の鉱泉の発見によってにぎわいをみせるようなった《森ケ崎》も位置していた(大森寺境内の記念碑「森ケ崎鉱泉源泉碑」)。 明治44年に発行された『東京近郊名所図会 第十一巻』には、「今や好個の保養場として都人士の知る所となれり」とあり、明治45年の中島錦一郎編『荏原風土記稿』にも、「利を見るに敏なる人々は此処に鉱泉旅館兼料理店を開業し、京浜地方の遊人若くは療養の客を送迎して居り、又鉱泉病院も開設されて居る」と紹介されていることから、鉱泉を掘り当ててから数年後には、旅館・料理店からなる保養地としてひろく知られていたようだ。 当時、養生館、光通館、盛平館、朝日館、海月館、三好館、森浜館、寿々元館、村松館、帝国の諸館、東京庵など、割烹店を兼ねる旅館が営業しており、鉱泉病院も開業していた。《森ケ崎》は、わずか10年ほどのあいだに、鉱泉旅館街へと急成長していたのである(図)。大正3(1914)年1月、古株の盛平館を中心に「森ケ崎料理旅館組合」が設立される。 大正11(1922)年には「森ケ崎芸妓屋組合」も成立したことで、料理旅館と芸妓屋という、当時としてはめずらしい二業地[芸妓置屋と料理屋(あるいは待合茶屋)の営業が許可された地区]となった。
文人たちの隠れ家
「森ケ崎は、都会の煙塵をさけて、一日の清遊を試みるといふよりは、享楽地といふに近い。一時は、文士たちがこゝに立籠つて、創作に耽つたものであるが、私たちが大金あたりで会をした頃は、自動車はないし、遠いので、帰りがたいへんだつた。一風呂あびてから、海にのぞんだ楼上で、盃をあげると、房総の山々は、夕日のなかに煙つて、池上の丘の上に浮ぶ富士の姿がよかつたのをおぼえてゐる。」(白石實三『大東京遊覧地誌』) 鉱泉の発見から花街へと発展した《森ケ崎》を、文士たちはこぞって訪れた。『東都芸妓名鑑』にも、「近頃小説家等、行つて構想を練る人も多いと聞く。東京のお夕飯済んでから、浮世離れて恋を語るにもふさわしく、鉱泉にひたつて数日の労を慰するに足るもの、東京郊外随一である」とある。 実際、永井荷風はこの地の料理旅館を『腕くらべ』(大正5-6年)の一場面で描き、また「料理屋兼旅館のひとつ『大金』には、いまは亡き芥川竜之介、久米正雄、堺利彦、十一谷義三郎、近松秋江、徳田秋声、広津和郎、尾崎士郎、そのほかいまもなお〔昭和46年の時点で〕活躍している丹羽文雄、尾崎一雄、徳川夢声などの人びとが、執筆のためか、あるいは一夜の清遊にやってきた」という(染谷孝哉『大田文学地図』)。東京湾を一望する海浜型リゾートにして、文士好みの隠れ家的鉱泉旅館街といったところか。 なかでも、この街をこよなく愛し、享楽地への変貌を書きとめたのが、先にも名前の出ていた尾崎士郎であった。