天才学者はとつぜん現れる…21世紀の「人間観」を変えた男はこうして生まれた
「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。 【画像】なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。
人間は「生物社会的存在」
本章では、現代の人類学をテーマに据えます。主人公は、70代半ばになった今でも現役として後進に影響を及ぼし続けているティム・インゴルドです。彼はそれまでの学者とはまったく違うアプローチで人類学を推し進めた開拓者と言えます。 インゴルドが世に知られるようになったのは、20世紀末からです。彼は若い頃から「自然」と「社会」を切り分けて考える近代西洋の二元論的な思考法に違和感を抱き、それを乗り越える方法を探ってきました。その思索の果てに、人間を「生物社会的存在(biosocial beings)」だと捉える考えに辿り着きました。生物社会的存在という言葉をはじめて耳にした人も多いでしょう。これはつまり、人間はつねに生物学的で動物的な存在であり、同時に社会的関係の中を生きている存在でもあるということです。そのどちらが欠けても、人間の本来のあり方とは言えない、というのがインゴルドの主張です。 インゴルド人類学のテーマは、一言で言えば、(動詞の)「生きている」です。彼に言わせれば、「生」というのは固定された不動のものではありません。絶えず動き続けて生成と消滅を繰り返し、変化するものなのです。固定化された名詞的な「生」ではなく、流動的で動詞的な「生きている」状態、「生の流転」に目を向けるのがインゴルドの人類学です。 生きている、というのはすでにゴールの決まっているプロセスを歩むことではありません。むしろ、行き先が未定で、宙に投げだされたかのような状態で変容していくプロセスに他なりません。インゴルドにとって「生きている」とは、人とモノ、人と環境が持続し、瓦解するプロセスを進んでいく中で開かれる現実なのです。 インゴルドは、人類学は、あらゆるものが「生きている」さまを生け捕りにする研究=実践だと考えます。そうすることで、世界に耳を澄まし、世界について学びながら、未来に向かって生きていくための人類学を切り拓いたのです。型にとらわれない、このダイナミックな思索こそがインゴルド人類学の魅力です。