天才学者はとつぜん現れる…21世紀の「人間観」を変えた男はこうして生まれた
菌類学者の子に生まれて
インゴルドは1948年にイギリスのバークシャー州レディングに生まれています。父親は著名な菌類学者のセシル・テレンス・インゴルド(1905―2010)です。彼は英国菌類学会の会長を務め、第1回の菌類学者による国際会議を主催した学者です。水生菌類の一群には、彼の名を取って「インゴルディアン菌(Ingoldian fungi)」という学名がついています。ティムの8歳年上の姉には、都市計画家で、ニューカッスル大学名誉教授のパッツィー・ヒーリー(1940―)がいます。 インゴルドは、父親から学問上の強い影響を受けたと振り返っています。父親は菌類を愛していて、自然の美しさに惚れ込んでいました。その姿を間近で見ていたインゴルドは、学者とは研究する対象に対して、強い愛着を抱くものなのだと感じたといいます。 他にも父親から学んだこととしてインゴルドが語っていることがあります。1930年代までは、菌類学者は瓶の中に詰められたものを研究室で調べていたのですが、彼の父は植物や菌類を実地で観察し、野外調査の重要性を訴えたのです。インゴルドは、そうした現場重視の菌類学者である父親の影響を受けて、フィールドワークを中心に置く人類学に進むことになったと語っています。現場を重視する姿勢は、文献だけでは研究に限界があると感じてフィールドワークに飛び出したマリノフスキとも共通していますね。 インゴルドはまた、菌類学の学問的立場にも影響を受けたようです。そもそも植物学というのは、光合成によって自ら栄養を生み出す植物を中心に組み立てられています。菌類は、動植物の死骸を分解するという奇妙な活動をするために、植物学では長らく厄介者扱いされてきました。菌類学者は植物学の主流からすれば、異端な考え方をする人たちなのです。 インゴルドは菌類学が植物学に対して行う批判は、人類学が社会科学に対して行う批判に似ていると考えています。彼は、人間を明確な境界を持った存在として捉える社会科学者に対して、否を突きつけます。人間には、自分とそれ以外を隔てる境界線などないのです。すべての人は諸関係のメッシュであり、どこまでも続く「線(ライン)」からできていると考えるのが人類学だというのです。 1990年代になると、インゴルドは父が菌糸を描いたように、人類学も人間をメッシュ状の線として捉えてみるべきだと考え、「菌類人間(mycelial person)」という造語を思いついています。インゴルドは、「小さな塊(ブロブ)」としての原核細胞と、細くたなびくような線(ライン)状の鞭毛を合わせ持つバクテリアから出発して、独自の人類学を構想するようになったのです。 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
奥野 克巳