92年前に金メダル「バロン西」 馬にも高級外車にも乗った破天荒な生涯と「硫黄島での最期」
硫黄島への赴任前、ウラヌスのもとを訪れている
しかし、騎兵部隊が時代遅れになったように、西の生き方も時勢に合わなくなっていく。そして命じられた戦地は、騎兵など1ミリも通用しない地獄の戦場だった。 1944年の6月に、西は硫黄島へと赴いている。ロスの栄光から12年後のことだった。爵位を有する金メダリストであっても、戦禍を逃れることはできなかった。 戦地に発つ前、家族と過ごすために与えられた束の間の休暇を使い、西は世田谷の馬事公苑に赴いた。年老いたウラヌスに別れの挨拶をするためである。ロス五輪の功労馬として、平和な余生を過ごすはずだったウラヌスも、戦時下の苛烈な環境を強いられていた。 <ウラヌスもすっかり老いた。体高五尺七分五寸、補助者がなければ乗れなかったばかでかい体も、一回り小さくなり、腰骨の張りが眼についた。飼養も運動も十分でないことが、一目でわかった。騎兵の消滅にともない火の消えたような獣医学校の病馬厩舎のはずれで、彼はいわば飼い殺しの運命にあった。殺されぬことだけが、功労馬の身上でもあるかのように。> <功労馬ウラヌスは、西を認めると、蹄で床をたたき、光沢のない鼻面を寄せてきた。尻尾の動かないことだけが、変わらなかった。神経でも切れているのか、ウラヌスは以前から尻尾を振れなかった。肋の透いて見える胴か尾部にかけて、ハエがびっしりついていた。無駄とは知りながらも、西は竹箒をさがして、そのハエを追い散らした。箒を戻すと、黒い粒はまた見る間にウラヌスの肌にはりついて行った。ハエはたかをくくっていた――。> 西は、「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っていたそうだ。 硫黄島への赴任は、すなわち死を意味していた。補給で内地に戻った際、引き上げを打診されたそうだが、「だめだ。部下が待っている」と、体調不良を押して再び死地へと帰っていったという逸話も残っている。 戦地には、エルメスの乗馬長靴を持って行ったと伝えられる。また諸説あるが、最期は片手には拳銃、もう片手にはロス五輪で愛用した鞭を手に、そしてウラヌスのたてがみを懐に抱き、敵陣地へと突撃していったそうだ。1945年3月没。42年の生涯だった。 *** 西竹一の姿は、伊原剛志が演じる「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督作品)でも描かれているほか、文中でも触れた『硫黄島に死す』(城山三郎著、新潮文庫)で、より詳しいエピソードを知ることができる。
デイリー新潮編集部
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