92年前に金メダル「バロン西」 馬にも高級外車にも乗った破天荒な生涯と「硫黄島での最期」
パリ五輪の「総合馬術団体」で大岩義明(48)、戸本一真(41)、北島隆三(38)、田中利幸(39)の4名が獲得した銅メダルは、日本勢92年ぶりの馬術競技でのメダルだった。では92年前は誰が――と、関心が集まっているのが、1932年のロサンゼルスオリンピックで「馬術障害飛越競技」で金メダルを獲った西竹一である。 【パリ五輪】競技中の真剣な表情とはまるで別人!? 私服に着替えた日本代表「女性アスリート」たちの美しすぎるプライベートショット ***
エルメス製の乗馬長靴を愛用
1902年、現在の東京都港区生まれ。父は薩摩藩出身の男爵で、外務大臣にも任ぜられた西徳二郎だ。その頃既に50歳を超えていた父は、竹一が9歳の頃に死去し、男爵(バロン)の位を引き継いだ西は、「バロン西」の愛称で親しまれることとなる。 ロス五輪では、愛馬・ウラヌスと共に出場。他国のライバルたちが障害物に躓き、続々と落馬していくなか、息の合った動きで、最高得点をマークし、下馬評を覆し見事金メダルに輝いた。 当時、西欧列強に「追いつけ追い越せ」の日本において、西欧貴族の嗜みである乗馬競技で金メダルを獲ったことは、まさに値千金。西が日本国民のヒーローとして持て囃されたのは想像に難くない。 爵位と共に莫大な遺産を受け継いだ西。ウラヌスも巨額の私費を投じ、イタリアから連れ帰った名馬だった。肩までの高さが181cmもあったという巨大な馬で、パワーこそ素晴らしかったものの、気性が激しく、現地の屈強な男たちが手を焼いていた。当時の日本人としては175cmという高身長の西でも、乗りこなすのは苦労したはずだが。心が通じ合ったのだろうか、西だけはこのウラヌスを乗りこなすことができたという。 ちなみに、競技で愛用していた乗馬長靴はエルメス製。当時の流通事情を鑑みれば、これもとんでもなく高価なものだったはずだ。パリ五輪の人気者になったトルコの射撃選手「無課金おじさん」と対をなす、重課金である。
日本には一台しかなかった十二気筒のパッカードを乗り回した
競技外の生活は、かなり派手だったそうだ。西の若いころから亡くなるまでを描いた小説『硫黄島に死す』(城山三郎著、新潮文庫)には、こんな記述がある。 <士官候補生時代からロードスターのオートバイを乗り回した。ロサンゼルスから帰ると、モーターボート「ウラヌス二世」で、水の上でも暴れまわった。自動車も、なみのものでは満足できなかった。格も柄も人に負けぬものをと思った。ロールスロイスを買い、さらには当時日本には一台しかない十二気筒のパッカードを買った。エンジンの前正面と、側面につけた予備タイヤは金色に塗り立て、どこでも人目についた。ガソリンを垂れ流して走るような感じの金を食う車であった。> モーターボートにつけた「ウラヌス二世」という名前にも、西の愛馬精神が表れている。ロスでオリンピック競技が行われる前、馬好きの富豪が各国の馬術選手をビバリーヒルズの屋敷に招き催された夜会に際しては、こんな豪快なエピソードも描かれている。 <何かの競技の優勝盃にシャンパンを満たし、それを飲み干した者に当夜随一の美女に接吻させるということになった。大きな銀の優勝盃であった。シャンペン一本では足らず、さらにいくつか注ぎ足した。だれも飲めなかった。西が進み出た。強くもないのに根性で飲み、とうとうみごとに飲み干してしまった。満場の拍手。西は胴上げして祝福された。だが、床に下ろされたときには、もう立てなかった。四つん這いに這うのがやっとであった。> こんな性格である。大方の日本人が蔑まれるなか、西は例外的に西欧の女性にモテたそう。ハリウッド女優を両脇に侍らせ、夜の社交場に繰り出していたという伝説も残っている。 小説の中には、こんな描写も。 <ロサンゼルスから西は夫人の武子に当てて、たった一回、葉書を書いた。(おれはもててるよ。アバよ。)ただ、それだけであった――。> ただ、西が派手な装いをしていたのには理由がある。馬上颯爽と指揮を執る騎兵士官は軍の中でも花形であった。「一に服装、二に顔、三に馬術」と言われたほど、騎兵士官は伊達者であることが重要だったのだ。服は体型を保ち、顔には知性をにじませる。技術はそのあとという訳だ。