水木しげると松本零士。娘が語る巨匠の素顔「父・松本零士が言った《一番大事なのはDNAで、自分たちはそれを運ぶ舟なんだ》の言葉を胸に」
松本 そうなんです。ただ、父が私に話してくれたことで印象的だったのは、父親の赴任で旧満洲(現・中国東北部)の、朝鮮との国境近くに住んでいた時、肺炎で死にかけた幼い父に、パイロットだった祖父が飛行機の酸素ボンベを吸わせて九死に一生を得たとか。 戦争が始まる頃に日本への引き揚げが決まって、家財道具を船に積み終えたはいいけれど、家族はその船に乗り遅れてしまった。次の船に乗って帰国したら、家財道具を積んだ船が魚雷攻撃を受けて沈没し、全員亡くなっていた、と。 原口 最初の船に乗っていたら、名作の数々は生まれていなかった……。松本先生はどんな父親だったのですか。 松本 いつも家にいる面倒くさい人(笑)。ノッてくると話が長い。ただ、普段は寡黙で、自分の世界に入っているので、私が話しかけても返事もしない。そういう意味では勝手。 原口 うちの父もやっぱり面倒くさかったですね。何を聞いてもまっとうな答えが返ってこないから、私は大人になるまで何が普通なのかがよくわからなかった。 松本 それ、すごくわかります。家の中の普通が、よそでは普通じゃなかった。 原口 うちはオナラ推奨だったのですが、人前でオナラをするのは普通はダメじゃないですか。でも父はオナラはイヤなものではなくみんなを楽しくするものだ、と。だって、オナラをすると笑うじゃないですか。 松本 笑いますね、やっぱり。 原口 「今の音はよかった」とか家族間ではオナラ談義でメチャクチャ盛り上がってましたよ。水木の父親、おじいちゃんなんて「次は梯子」と言ってプープー、ププププと梯子段まで表現してた(笑)。あと、鶯の屁渡りとか。 松本 立派な芸ですね!
◆信念を持って続けるすごさ 原口 水木は9年前に93歳で亡くなり、青山葬儀所でお別れの会を開きました。第一部は関係者、第二部はファンの方たちにお見送りしていただきましたが、第二部が始まる時には長蛇の列で。「お父ちゃんはこんなにも多くの人に愛されていたんだな」と涙が溢れました。父のすごさを改めて知りましたね。 松本 うちは2023年2月に85歳で亡くなりましたが、6月に行われたお別れ会の日に台風が直撃し、新幹線が止まったりで大変でした。それでも、午後には晴れて大勢の方が来てくださいました。私はファンの方たちと接する機会がなかったので、それは本当にありがたくて。「お父さんよかったね。見てる?」と父に話しかけましたね。 原口 本当にファンの方たちはありがたいですよ。水木のスケジュール帳にも「読者が大事」と書いてありました。 松本 父が亡くなってから仕事場を整理しているんですが、デビュー前や直後の原稿が山ほど出てきたんです。どれもものすごく丁寧に描かれていて。一つのことを、信念を持って続けていくことのすごさに圧倒されました。本当に父は一生懸命描いていたんだな、と。 原口 よく途中で諦めなかったよね。 松本 本当にそう。そういえば、横浜で水木先生の展覧会に伺った時、ショップで若いお母さんが鬼太郎の塗り絵を子供に買ってあげているのを見たんですけど、子供さんが嬉しそうで。そうやって将来に繋がっていくんだな、いいなあと思って。
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