徳川家康は本当に豊臣家を滅ぼそうとしたのか⁉
豊臣秀吉死後、徳川家康は天下統一に向け勢力を増大させ、結果的には豊臣家を滅亡に追い込むのだが、果たして本当に豊臣家滅亡を望んでいたのだろうか? ■徳川家の存続のため将来の禍根を絶つ 徳川家康がいつ頃から豊臣家を滅亡に追い込もうと考えたかは明らかではない。周知のように、豊臣秀頼(とよとみひでより)には家康の息子・秀忠(ひでただ)の娘・千姫(せんひめ)を嫁がせており、徳川家と豊臣家は姻戚関係にあった。しかし、家康としては徳川幕藩体制永続化のためには、豊臣家のような異質な大名が存在することは好ましいことではなかった。 家康は日本・中国を問わず、歴史の本をよく読んでいた。特に愛読していたのが鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』(あづまかがみ)で、そこには、源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆に流されたあと、平家との戦いに勝って鎌倉に幕府を開いていったいきさつが描かれていたが、家康は、平清盛(たいらのきよもり)が源頼朝を殺さず、伊豆に流したことが結果的に、源平の戦いにおいて平家が敗れて滅びていった点で、そのあたりを教訓として読み取ったのかもしれない。将来の禍根(かこん)を絶つというわけである。 二条城の会見で、秀頼が立派に成長していることを実見し、さらにその思いを強くしたのかもしれない。その二条城の会見から3年経った慶長19年(1614)、秀頼が造営を進めていた豊臣家の菩提寺である京都の方広寺(ほうこうじ)に、豊臣家討伐の口実をみつけた。これが方広寺鐘銘事件というわけである。 家康は、鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」という文字が刻まれているのを、「家康を〝安〟の字で切り、豊臣家だけが栄え楽しむ」のは徳川家に対する呪いであると難癖(なんくせ)をつけ、豊臣方に怒りをぶつけている。そしてこのとき、家康は豊臣家存続のための条件をつきつけているのである。その内容は、⑴秀頼の江戸参勤、⑵淀殿を人質として江戸に送る、⑶秀頼が大坂城を退去し、国替えに応じる、のうちのいずれかを呑めというものだった。 いずれも、異質な大名としての特権を剥奪し、徳川の臣下となって恭順させる要求である。淀殿・秀頼がこれらのいずれかの条件を呑めば、家康としては、豊臣家を滅ぼすまではしなかったかもしれない。他の大名と同じように、一大名として天下普請にも応ずるようであれば、かつての秀吉が、織田家を一大名として残したように、豊臣家を残したかもしれない。 監修・文/小和田哲男 歴史人2024年1月号『大坂の陣 12の「謎」』より
歴史人編集部