「最後まで諦めない男」大阪城館長に聞く真田幸村の人物像
「真田丸」が最終回へ
「最後まで諦めない男」大阪城・北川央館長に聞く真田幸村の人物像 THEPAGE大阪
大坂の陣400年事業からNHK大河ドラマ「真田丸」放送へ、大阪では3年間、真田幸村(信繁)ら戦国武将たちの波乱万丈の生き方を再検証するセミナーなどが展開され、当サイトでも折にふれてリポートしてきた。「真田丸」が最終回を迎える今、幸村研究をリードする北川央大阪城天守閣館長に、改めて話を聞いた。テーマはズバリ「幸村とは誰なのか」。北川館長は夏の陣の最終決戦を振り返りながら、幸村とは「最後まで諦めない男」と断言した。 真田丸・後藤又兵衛死す「道明寺合戦」の古戦場跡を歩く
徳川方に進軍を許し豊臣方には不利な戦況に
──1615年(慶長20)5月6日、若江、八尾、道明寺の3方面で、豊臣方と徳川方が戦った。どんな展開になったのか。 「若江の戦いは豊臣方の木村重成が戦死し、徳川方が勝利した。八尾では豊臣方の長宗我部隊と徳川方の藤堂隊が激突し、長宗我部隊が藤堂隊を壊滅状態に追い込んだ。しかし、長宗我部隊に対し、大坂城から防衛のために戻って来いとの指令が届く。藤堂隊で無傷の状態で残っていた精鋭部隊が突如、長宗我部隊を追撃して大打撃を与える。前半は豊臣方優勢ながら、後半は形勢が逆転して徳川方が押し返す。優劣相半ばといったところか」 「道明寺合戦は両軍主力部隊の激戦となった。豊臣方の予測より徳川方が早く進軍してきたため、豊臣方は先鋒の後藤又兵衛隊が単独で徳川方を迎え撃つ。後藤又兵衛は善戦したものの戦死。午後からは全軍同士が激突し、豊臣方が優勢に戦った。しかし、長宗我部隊と同様、大坂城から救援要請を受けたため退却を図る。真田隊がしんがりを務め、幸村の見事な采配で徳川方の追撃を受けることなく退却できた」 ──戦いが終わった時点で、どちらが優勢だったのか。 「徳川軍としては大きな犠牲を払ったものの、大坂城へ近づけた。一方、豊臣方には作戦通りにいかなかったという思いが残っただろう。徳川方の進軍を許した豊臣方に不利な結果に終わった」
真田幸村と毛利勝永が見事な連係プレーで家康に肉薄
──明けて7日。前日に盟友の後藤又兵衛らを失いながらも、幸村は天王寺口・岡山口の戦いに挑む。劣勢の中で、どのように戦おうとしたのか。 「幸村は道明寺から撤退した後も大坂城へ戻らずに、茶臼山に陣を構えた。中央の四天王寺には毛利勝永が布陣。東の岡山口周辺は大野治房に任された。天王寺口は幸村と毛利勝永が総大将で作戦参謀、岡山口は大野治房が受け持つことになった」 ──寄せ集め部隊とも言われた豊臣方の間で、戦略に対する意思統一ができていたのか。 「当日出した大野治房の書簡が残っている。天王寺口方面の豊臣方諸将に対して、『軽率に動くな。真田と毛利がいるから、彼らに相談して彼らの指示通りに行動せよ』と、繰り返し強調している。前夜、茶臼山と四天王寺に布陣した幸村と毛利勝永が徹底的に戦略を練り上げて決戦に臨み、大野治房もふたりを信頼していたと考えていいだろう」 ──作戦は的中したのか。 「戦闘は毛利隊と徳川方の本多忠朝隊の間で始まった。毛利隊は一備えの本多隊を駆逐して前進し、二備えの小笠原隊も破る。敵方大将が討ち死にするほど、毛利隊の完勝だった。毛利隊が勢いに乗じて家康本陣を攻撃するそぶりを見せると、家康を守るため徳川全軍が家康本陣に寄ってくる。そのすきを狙い、前方ががら空きになった状態で真田隊が茶臼山から駆け下りて家康本陣を突く。本当に見事な連係プレーだと思いますね」 ──幸村とともに、毛利勝永もよく戦った。 「史料に『毛利と真田、両人の働き、比類なき』とある。他にも『東軍の先頭を切り崩したのは毛利、本陣を襲ったのは真田なり』とか、『正面突破を図った毛利の正兵と、真田の奇兵によって、徳川は粉のごとく切り崩された』という記述も残る。江戸時代から幸村ばかりではなく、毛利勝永がもっと評価されてもいいという声が強かった」