「最後まで諦めない男」大阪城館長に聞く真田幸村の人物像
どんな状況になっても最後の最後まで諦めない
──幸村は家康本陣へ切り込むことができたのか。 「幸村は家康の本陣に三回切り込んだと史料にある。『もう一度切り込んでいたら家康も自害したのではないか』『家康の旗本衆が家康を放置して三里ほど逃げた』などという資料も見受けられる」 ──幸村はなぜ家康本陣襲撃に作戦を絞ったのか。 「家康のカリスマ性だけで、15万を超える徳川軍は持ちこたえていた。かつて天下取りを争った織田信長や武田信玄、今川義元らが亡き後、それぞれの家が滅びたように、家康ひとりを倒せば、徳川軍が瓦解する。幸村が家康を討ち取ることができれば、同じことが起こり得た。決戦前夜、毛利勝永と開いた綿密な作戦会議は、いかにして家康を倒すか。この一点に絞って議論していたと考えられる」 ──結果的に、わずかにおよばず幸村は戦死し、大坂の陣は豊臣方の敗北で終わる。400年を経て、現代人は幸村から何を学べるか。 「長らく大坂の陣は豊臣方が負けることが分かっていた戦いだった、幸村は九度山で朽ち果てるくらいなら、最後は武将として華々しい死に場所を求めて大坂城へ入っていたと思われていたが、決してそうではない。道明寺合戦は作戦通りに展開すれば豊臣方に十分勝機があった。最後ももう一歩のところまで、家康を追い詰めた。幸村は最後の最後まで、勝利を諦めずに行動していた。幸村の戦い方を分析すると、どんな状況になっても勝利を諦めずに行動する人間だったと考えた方が、しっくりくる。諦めない心、ネバーギブアップの精神。10年来の持論ですが、今回の『真田丸』も、私の考えがいささか浸透してきたのではないかと思いながら観てきました」
──大阪市が推進する豊臣石垣公開プロジェクトについて。 「大坂の陣後、徳川政権は威信を示すため、豊臣秀吉が築いた大坂城を埋めて、その上にさらに壮大な大坂城を築いた。現在も豊臣大坂城の石垣が地下に残っています。豊臣石垣公開プロジェクトは、現在の大阪城の下に、もうひとつの大坂城が眠っているということを体験してもらえるプロジェクトです。幸村たちが活躍した時代から連綿と続く大坂城の歴史に理解を深めてもらいたい」 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)