「親が障害者だから、僕を犯人扱いするのですか?」その場面を目撃した母親は──
ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づき──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです
手話は変。クラスメイトが言ったひとことは、心に深く根を張った。外で母と手話を使って会話しようとすると、手が止まる。どうしても周囲の人の視線が気になってしまう。 おかしいと思われているのではないか。笑われているのではないか。一度湧いた疑念は、時間とともにどんどん膨らんでいく。比例するように、母とうまく会話できなくなっていった。結局、“手話クラブ”は一年で辞めてしまった。手話に関わることが嫌になってしまったのだ。 そして、その頃から、障害者に対する差別や偏見というものに敏感になっていった。目を凝らしてみると、世のなかには想像以上にそれらが蔓延(はびこ)っていることに気づく。なかでも忘れられないのが、小学六年生になったときに遭遇した出来事だった。 家の近所にはひとり暮らしのお婆さんがいた。ぼくは彼女ととても仲がよく、しょっちゅう遊びに行っていた。どうやら彼女は親族と疎遠になっているらしい。遊びに行くと、まるでぼくを孫のように招き入れてくれて、お菓子やジュースを振る舞ってくれた。 彼女の庭にはさまざまな草花が植えられていて、季節ごとの移り変わりが美しかった。花に水をやるときのコツや、一つひとつの花言葉を教えてくれた。 授業が終わり、ひとりで自宅に向かっていたときのことだ。お婆さんの家の前を通りかかると、彼女と隣に住むMさんが話し込んでいる様子が目に飛び込んできた。お婆さんはなにやら困っている。 なにがあったんだろう。そう訝(いぶか)しんでいると、ぼくに気づいたMさんが声をあげた。 「あんたが犯人でしょう」 突然、大人に詰問(きつもん)され、その場に立ちすくんでしまう。Mさんは忌々(いまいま)しげな表情を浮かべ、ぼくを睨んでいる。隣で呆然としているお婆さんは、とても哀しそうだ。 その足元に目をやると、色とりどりの花弁が散っていた。どうやら、お婆さんが大切にしていた花壇が踏み荒らされてしまったらしい。 Mさんは、その犯人をぼくだと決めつけているようだった。 「知りません。ぼくじゃないです」 「そんなわけない。あんたでしょう」 「違います」 いくら否定しても押し問答だった。仲良しのお婆さんの花壇を荒らすわけがない。でも、信じてもらえない。そしてMさんは続けた。 「どうせこの子がやったんですよ。親が障害者だから、仕方ないかもしれないけど」 Mさんはいつもそうだった。「障害者の子どもだから」という理由で、常に差別的な眼差しを向けてくる人だった。 Mさんにはぼくと同世代のふたりの子どもがいた。でも、彼らは決してぼくと仲良くしようとはしなかった。近所の子どもたちが集まって遊んでいても、必ずぼくはのけ者にされてしまう。 理由はわかっていた。ぼくが障害者の子どもだからだ。Mさんの差別的な思想は、ふたりの子どもにも浸透していた。 それでも、いつも我慢していた。歯向かったって意味がない。 ただし、このときばかりは違う。やってもいないことの犯人にされるなんて、耐えられない。 「ほら、早く謝りなさいよ」 Mさんにそう言われた瞬間、なにかが音を立てて崩れてしまった。泣いちゃいけないと思っても、次から次へと涙がこぼれてくる。そして、堰止(せきと)められていた感情が溢れ出した。 「ぼくの両親が障害者だから、こうやって意地悪するんですか?」 ぼくの言葉を聞き、Mさんは顔を強張(こわば)らせる。 「誰もそんなこと言ってないでしょう」 いくらMさんが否定しても、納得できない。三十分ほど反論を続けた。