南部家から独立を図り、一代で大名へとのし上がった津軽為信の「辣腕」
■一代で弘前藩の礎を作った津軽為信の「辣腕」 津軽為信(つがるためのぶ)は、主家である南部家の混乱に乗じて独立すると、現在の青森県西部を奪い取り、調略や暗殺を駆使して大名へと上り詰めた梟雄というイメージが強いと思います。 為信が妹を石川政信(いしかわまさのぶ)の側室に差し出し、機会を得て毒殺し、その領地を横領したという逸話なども知られていますが、実際のところは真偽不明とされています。 為信は武力と外交を駆使しながら、南部家の勢力を駆逐し周辺勢力を糾合して、一代で津軽地方を支配下に治めています。この軍事と外交における為信の「辣腕(らつわん)」ぶりが、南部家など敵対勢力から悪評を立てられる原因になったと思われます。 ■「辣腕」とは? 「辣腕」とは辞書等によると「厳しい手法を用いて、物事を躊躇することなく、的確に処理する能力のあること。または、凄腕」とされています。類似した言葉に「敏腕」がありますが、こちらは「手際よく性格に素早く処理する能力をもつこと」で、「辣腕」には多少強引なやり方を用いてでも処理する意味が含まれています。 為信は軍事だけでなく、外交面などで能力が高かったものの、強引な手法を用いる事もあったようです。そのため旧主筋の南部家との対立が長く続き、悪評として記録を残されてしまいます。 ■津軽家の事績 為信は南部家の傍系である、久慈家から出た大浦家に婿養子として入り大浦為信と名乗っています。但し、為信自身の出自は南部家の一族と言われていますが、諸説あり詳細は不明です。 大浦家は現在の青森県弘前市賀田にあった大浦城を本拠地としていました。為信は大浦為則(おおうらためのり)の養子となり家督を継承すると、南部家の家督継承の混乱に乗じて、南部信直の父と言われる石川高信(たかのぶ)の石川城を攻略しています。 その後、1576年に大光寺城、1578年に名門北畠(きたばたけ)家の浪岡城を奪い勢力を拡大していきます。 これらの時期も諸説あるため、明確ではありませんが、1585年には津軽東部の油川城を攻略し、津軽地方をほぼその手中に治めつつありました。そして同年に、最上義光(もがみよしあき)から中央の情勢に関する情報を得ると、豊臣政権との関係性強化を考え、謁見のために船で向かい、失敗しています。その後も何度も上洛を試みますが、周辺勢力の秋田家や南部家に妨げられ失敗を続けています。 しかし、1589年に秋田家と講和し、家臣の上洛に成功すると、津軽4万5千石を認められています。 その後も為信は宿敵でもある南部家の妨害工作を外交的な「辣腕」で凌いでいきます。