南部家から独立を図り、一代で大名へとのし上がった津軽為信の「辣腕」
■秀吉に認めさせた外交における「辣腕」 為信は、豊臣政権との繋がりが重要であると判断すると、1586年という早い段階で矢立峠ルートからの上洛を図り失敗しています。そして、翌年には南部領の強行突破を図り、1588年には秋田口から突破を図るなど、毎年のように上洛を計画し、その都度、他勢力に邪魔されています。 ついに1589年に秋田家と和解し、家臣を上洛させると、石田三成(いしだみつなり)を通じて秀吉に馬と鷹を献上し、津軽地方を安堵されています。 さらに、1590年には小田原征伐に合わせて関東入りして、秀吉に直接謁見しています。豊臣政権との関係性の強化は、その後の南部家による妨害工作を防ぐことに成功します。 南部家から前田利家を通じて惣無事令(そうぶじれい)違反を訴えられますが、秀吉からの信頼が厚い三成との関係性を構築できていた事で不問とされています。 また、変名前の大浦家が近衛家と縁戚にあるという伝承を元に、近衛前久を財政支援し、猶子の資格を得ています。これにより同じく猶子となっていた秀吉とは形式上は義兄弟となったようです。 為信のこれらの手腕が政権から認められたのか、長男信建(のぶたけ)は豊臣秀頼(ひでより)の小姓となっています。 ■「辣腕」による成功と失敗 為信は、関東方面の実力者である徳川家康への接近も行っています。そのため、次男信堅(のぶかた)と三男信枚(のぶひら)は家康や秀忠の側仕えをしています。 この両睨みの策により、津軽家は関ヶ原の戦いで本領安堵を得た上で、上野国に飛び地の領地として2000石を加増されています。 関ヶ原の直前には、対立していた家老森岡信元(もりおかのぶもと)を暗殺させて、留守にする領国の安定を図ろうとしています。しかし、結局は騒動が起き、本拠地である堀越城を一時的に占領されています。これは西軍派の家臣による謀反だったと言われていますが、為信のなりふり構わない「辣腕」への反発が強かったのかもしれません。 その後も家族内でのいざこざから、堀越城に乱入される天童事件を起こすなど、為信の強引な行動が家中に混乱を生むきっかけを作っています。 晩年には無謀ともいえる行動が目立つようになったようです。京で病を患い療養していた信建を見舞うために自らの病身を押して訪れ、その結果として自身も同地で病没しています。 ただし、これは見舞いが目的ではなく、実は自分の病を京の名医に診てもらいたかったためという説も立てられています。 このような強引に見える行動などが、後世のイメージ悪化に影響を与えていると思われます。 ■「辣腕」が生み出す強いマイナスイメージ 津軽家は為信の「辣腕」により南部家に従属する身分から、一躍大名として認められる存在となりました。一方で、周辺勢力や内部から反発を受けることも多かったようで、宇喜多直家や最上義光のように戦国の梟雄というマイナスイメージを付けられてしまいます。 現代でも組織内で「辣腕」を振るい業績を挙げていく中で、内外の反発を受けて悪評を立てられてしまう例は多々あります。 実際は、後世の悪評とは裏腹に信義に厚かったという逸話も残されており、大坂から逃げてきた三成の子女を匿ったとも言われています。 また、新しく本拠として弘前城に作られた社の奥には、開かずの宮があり、その中には秀吉の木像がひっそりと祀られていたそうです。
森岡 健司