【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉⑨】与えられた仕事に夢を乗せれば120%の実力になる
嫉妬や意地悪は軽く流し、やるべきことを貫く
「30歳からマーケティング部門に抜擢され、美容研究から美容研究室、美容研究部、総合美容研究所へと組織を拡大しつつ、ソフト部門を任されてきました。 そして、1983年、48歳のときに念願のプロを育成する『ザ・ベスト・メイキャップスクール』を社内に開校し、総合美容研究所長と校長を兼任しました。 プロ育成のスクールは、会社を辞めて起業する予定でしたが、会社からの引き止めがあり、会社内で開校することになりました。 私がイメージしたスクールは、生徒が20人ほどで、数百時間の授業、授業料60万円くらいを想定していました。プロ育成なので、ほかの化粧品会社の人でも受けつけるといった本格的なものでした。 会社側はその案を簡単に承認するわけがありません。もっと簡易なものと考えていて、ここでも意見が合わず、結局実現するのに2~3年かかりました」
当時は雑誌やテレビ、広告などでメイクアップアーティストの需要が増えていたので、スクールは順調に生徒を増やしていった。 「写真はポスター撮影時のメイク風景で、左端が私です。 そして、スクール開校後の1985 年に取締役へという話がきました。 『取締役だか、戸締り役だか知りませんが、どういう仕事をするのか私にはわからないので』と言って、いったんは辞退しました。今までメイクアップのスペシャリストを目指してきただけで、人を管理する勉強など一切していません。とても務まるとは思えなかったのです」 しかし最終的に、「次世代の人たちの道しるべになるならば」と引き受けた。小林さんが50歳のときだ。 「当時私は部長職(総合美容研究所長)で、社内的には副参与という立場でした。そこから参与を経験せずに飛び級で取締役になったのです。この人事はほかの男性社員からの反感を買い、時には意地悪をされました。 役員会の朝食会に初めて行ったときのことです。私は伝えられた8時の少し前に会場に着いたのですが、そのときすでに朝食を終えていました。本来は8時スタートでしたが、会長がいつも早く来るので、何年も前から7時には始まる慣習になっていたことを、私には伝えられなかったのです。 『やられた』と思いました。私にその時間を伝えた人は、もし私が役員にならなかったらその人がなっていただろうといわれていました。完全に私の思慮不足でした。 そういった意地悪はほかにもありましたが、そのつど、嫉妬や意地悪に大騒ぎせずに、すっとかわして取り合わない…を通しました。 こうして、メイクアップアーティストである私は、総合美容研究所長、校長、取締役の3役の仕事をこなし、6年が過ぎた1991年、私が56歳のときに役員を辞任し、コーセーを退社しました」