ロジェ・ミラがエトーに託したバトン。カメルーン代表が巻き起こした奇跡、チームメイトとの衝撃の死別
独裁政治による衝突、ピッチ外での暴動、宗教テロ、民族対立……。いまなお様々な争いや暴力と常に隣り合わせのなか、それでもアフリカの地でサッカーは愛され続けている。われわれにとって信じがたい非日常がはびこるこの大地で、サッカーが担う重要な役割とは? 本稿では、自身も赤道ギニアの代表選手として活躍し、現在はサッカージャーナリストとして活動する著者が書き上げた書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』の抜粋を通して、アフリカにおいて単なるスポーツの枠に収まらないサッカーの存在意義をひも解く。今回は“不屈のライオン” カメルーン代表で受け継がれた稀有な二人のストライカーの活躍と邂逅について。 (文=アルベルト・エジョゴ=ウォノ、訳=江間慎一郎/山路琢也、写真=L'EQUIPE/アフロ)
38歳のストライカーが2試合連続で2得点の活躍
カメルーンではどこの街角にもサッカーが息づいている。少しでも空地があればボールを取り出してきて転がしたり、即席の試合をしたりする。太陽が伸びをしてから星の緞帳(どんちょう)が下りて夜になるまでボールを蹴り合う。1980年代がカメルーン代表にとってセンセーショナルな時代の始まりだ。まず手始めに、“不屈のライオン”は1982年のスペイン大会でワールドカップ初出場を果たした。 この後数年にわたり、“不屈のライオン”の黄金の一章が綴られることとなる。1984年と1988年にはアフリカネーションズカップ(CAN)を制覇。同年の大会では、当時33歳でモンペリエに所属していたロジェ・ミラの活躍が際立った。このベテラン選手は、フランスサッカーでそこそこの活躍をしてはいたものの、人気を集めるほどの大活躍というほどのことはなく、スターの座を射止めることはなかった。 迎えた1990年ワールドカップ・イタリア大会。アフリカのチームがワールドカップで初めて決勝トーナメント進出を果たした。この画期的な出来事はアフリカ大陸の誇りとなる。 決勝トーナメントのラウンド16はナポリのスタジアムで行われた。カメルーンを迎え撃つのはイギータとバルデラマなど豊富な人材を擁するコロンビアだったが、この試合でカメルーンは、これまで他のアフリカの代表チームがワールドカップでは成し遂げられなかったスタイルを披露した。自分たちのやり方で試合を進めるということだ。ロシア人監督ヴァレリー・ニポムニシ率いる今や伝説のチーム“不屈のライオン”は攻撃的なサッカーで対戦相手を屈服させた。流れるようなサッカーを好む獲物に考える時間など与えず、限界まで追い込んだ。これが成功の鍵だった。 準々決勝進出をかけたコロンビアとの試合は波乱がないまま時間が過ぎていく。カメルーンには「プランB」があった。前半はベンチに温存していたが後半になって実行された。コロンビアのディフェンダーをいつでも吹き飛ばすことができる手榴弾ロジェ・ミラだ。試合は延長戦に突入すると、延長後半の開始早々にミラのハリケーンが起こった。左サイドにいたフランソワ・オマン=ビイクが中央にいたミラに向かって左からショートパスを通す。ミラはワンタッチで前を向いて相手選手を置き去りにすると、足を投げ出してきたもうひとりのセンターバックをかわしてから、左足で正確なシュートを放ちゴールキーパーのイギータを倒した。しかもミラは、その数分後にペナルティエリアの外まで出てディフェンダーとのパス交換に応じていたイギータのトラップミスを見逃さなかった。ボールを奪い取ったミラは無人のコロンビアゴールへと向かった。わずか数分のうちに2度のワンマンショーを披露したのである。これでカメルーンの準々決勝進出が確定した。 38歳のストライカーが2試合連続で2得点の活躍を見せたのだから、なんと4回ものダンスタイムがあったというわけだ。コーナーフラッグの前でユニフォームの裾を外だしにして踊る口髭を生やしたカメルーン人の姿は何百万という人々を幸せな気分にした。