ロジェ・ミラがエトーに託したバトン。カメルーン代表が巻き起こした奇跡、チームメイトとの衝撃の死別
悲劇からの立て直しを託された新世代の大黒柱
ライオンのエンブレムを胸に、国際Aマッチ118試合出場56ゴールを記録したエトーは、カメルーン代表の通算最多得点王だ。ワールドカップには4度、CAN本大会には6度出場している。CANでは通算18ゴールを決めており、これはアフリカ大陸最高峰の大会での通算最多得点である。 エトーにとって、カメルーン代表として最初の重要な試合は、ナイジェリアとガーナが共催した2000年のCANだった。決勝はラゴスで開催され、カメルーンと開催国ナイジェリアの一騎打ちとなった。試合はPK戦にまでもつれ込んだがアウェーのカメルーンが勝利し、ホームチーム側の観客を失望させた。この重要な舞台でも、エトーは相手ペナルティエリア内でボールを拾うと先取点をたたき出していた。ビッグタイトルにおける、稀代のストライカー、エトーの伝説が幕を開けた。 2000年のシドニーオリンピックでは、カメルーンU-23代表が金メダルを獲得する。決勝戦ではスペイン相手に苦戦をしたものの、またもやPK戦で勝利を収めた。この試合でエトーは、苦境に立たされていた“不屈のライオン”を救い出す同点弾を決めた。 成功体験の極めつけは、2002年にマリで開催されたCANだ。すでにカメルーンのストライカーとして名声を確立していたパトリック・エムボマとエトーの率いるチームは4度目の優勝をものにした。決勝はセネガルを相手にこう着状態が続き、またしてもPK戦で決着がついた。 しかし、そうした喜びは雲散霧消する。2003年6月26日午後のことだ。カメルーン代表はフランスで開催中のFIFAコンフェデレーションズカップ2003に出場していた。6つの大陸選手権の各優勝国とワールドカップ優勝国および開催国が参加して行われるカップ戦だ。 この大会で“不屈のライオン”は傑出した活躍をしていた。グループリーグではトルコとブラジルを破って準決勝進出を難なく決めた。そんなカメルーン代表で中盤の底を担っているのがマルク=ヴィヴィアン・フォエだ。マンチェスター・シティでプレーしており、豊富な運動量で自陣のペナルティエリアから相手陣内のペナルティエリアまで顔を出すことのできるボックス・トゥ・ボックスのプレースタイルで開花した選手だ。もっとも、本来の所属先はリヨンなのだが、その最終シーズンにイングランド・プレミアリーグのクラブへ期限付きで移籍をしていた。 準決勝のコロンビア戦は偶然にも、フォエの本拠地リヨンで行われた。フォエは数日前から体調が優れなかったが、慣れ親しんだスタッド・ジェルランのピッチに立たずにはいられなかったのだろう。出場を直訴した。しかし後半25分が過ぎた頃にフォエは突然意識を失いピッチの上に倒れ込んだ。そして搬送された病院で医師団の懸命な蘇生処置もむなしく、フォエは帰らぬ人となってしまった。2度のワールドカップで祖国のために貢献したフォエは、ワールドクラスのプレーヤーへと大きく羽ばたいたリヨンの地で命を落とした。 チームメイトとの衝撃の死別にカメルーン代表は悲嘆に暮れた。だが、戦いは続いた。コロンビアとの準決勝は1-0で勝利。前半9分のヌディエフィの得点を守り切った。決勝はフランスと対戦したが0-1で敗北し、カメルーン代表はリヨンの地を後にした。 カメルーンのサッカー界は、悲劇からの立て直しを新世代の大黒柱であるサミュエル・エトーに託した。そんなエトーの歩みを全世界のサッカーファンは熱心に追うことになる。エトーはストライカーが想像しうるあらゆるタイプのシュートを決めて数々のゴールを生んだ。早熟の天才として欧州サッカーへ勇敢にチャレンジした少年は世界じゅうのディフェンダーから恐れられるライオンへと変貌を遂げた。 (本記事は東洋館出版社刊の書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』から一部転載) <了>
[PROFILE] アルベルト・エジョゴ=ウォノ 1984年、スペイン・バルセロナ生まれ。地元CEサバデルのカンテラで育ち、2003年にトップチームデビュー。同年、父親の母国である赤道ギニアの代表にも選ばれる。2014年に引退し、その後はテレビ番組や雑誌のコメンテーター、アナリストとして活躍。現在は、DAZN、Radio Marcaの試合解説者などを務める。
文=アルベルト・エジョゴ=ウォノ