人口減退期は“終着駅”ではない…今回の減少で日本はどんな新文明に移るのか
象徴的な出来事として記憶されているのは、第1次石油危機である。1973年10月に勃発した第4次中東戦争によって、アラブ石油輸出国機構が親イスラエル諸国に対して石油輸出禁止措置を取り、その結果として原油価格が高騰した。そのため、石油の備蓄をほとんど持たなかった日本では、大混乱が起きた。「狂乱物価」と称される物価の高騰が起き、1974年の経済成長率は戦後初めてマイナスとなった。高度経済成長は終焉し、安定成長へ移行した。 資源や環境の制約を問題視した国連は1974年8月に第3回世界人口会議を開催して、人口爆発に対処するために「世界人口行動計画」を採択した。日本でも同年4月に、人口ゼロ成長を副題に掲げた人口白書(『日本人口の動向-静止人口をめざして-』)が公表されて、新聞は「子供は2人が限度」(毎日新聞)と伝えた。 石油危機は象徴的な事件であったに違いないが、意識の変化はそれよりも前から始まっていた。1968年にアメリカの月探査船アポロ8号が送ってきた、月面上に浮かぶ小さな地球の映像は、「宇宙船地球号」のはかなさを、世界の人々の目に焼き付けたことだろう。 工場が大気や水を汚染して病気を引き起こすことは産業革命の時期から問題になっていたが、R・カーソンが『沈黙の春』によって、農薬のDDT、BHCが広く環境を汚染して生態系を破壊することを指摘したのは1962年だった。その頃、高度成長のまっただ中にあった日本でも、硫黄酸化物や窒素酸化物による大気汚染、有機水銀、カドミウムなどによる水質汚染が問題になっていった。現在では、鉱物エネルギーの燃焼から大量に排出され続けてきた温室効果ガスが、地球温暖化を引き起こしているとして、その抑制が人類共通の課題になっている。 産業文明がもたらした人口増加とそれを上回る経済成長を望み続けることができない、ということは早い時期から警告されていた。人口爆発と経済成長が続くなら100年以内に成長は限界に達するとした1972年のローマ・クラブ報告書『成長の限界』が世界に与えた衝撃は大きい。同じ年に、物理学者のガボールは『成熟社会』を発表している。この中で著者は、量的拡大のみを追求する時代は終わったこと、しかし精神的な豊かさや生活の質的な向上を目指すことによって、平和で自由な社会を目指すべきことが主張されている。 その後、1979年には第2次石油危機が起きた。2度の石油危機は日本の経済、社会に与えた影響は大きい。なかでも省資源・省エネルギーへの取り組みを通じて、省エネ技術の発展、脱石油エネルギー開発、食料自給率向上、大量消費型のライフスタイルへの反省など、産業文明そのものへの懐疑と新しい文明への模索の発端になった。少子化も、このような社会全般の意識の変化の表れと見ることができるのではないだろうか。 単なる少子化対策ではなく、文明史的な検討が求められているのである。