【記憶の解凍プロジェクト】被爆者・梶矢文昭さん 「いまもなお、語り続けてくれている」 写真のカラー化でよみがえる記憶
梶矢さんは、九死に一生を得ました。しかし… ■被爆者 梶矢文昭さん 「姉の死体を見つけて、柱の下敷となっていた。柱を持ち上げて引っ張り出して、死体を担いで山のほうに逃げる。」
やがてたどり着いた二葉山のふもとで目にしたのは、変わり果てた光景でした。 ■被爆者 梶矢文昭さん 「母親はうめいている。死んだ姉が横たえられている。目の前は練兵場、向こうは広島の街が燃え上がっている。」
姉は親元を離れ、疎開していました。原爆投下の2日前、母親が姉を訪ねたときのことでした。 ■被爆者 梶矢文昭さん 「母親が夏に着替えを持っていったらしい。そうすると、その母親を見て「連れて帰って。連れて帰って。連れて帰って。」と一晩中離れなかったと言って。「うちは死んでもええ。死んでもいいから、お母さんといっしょがええ」と言って。」
自宅に戻ってきた姉。そのさなかの悲劇でした。母親は、姉を連れ戻したことを一生悔やみ続けました。 ■被爆者 梶矢文昭さん 「(姉が死んだときに)少し微笑んでいた。笑顔で死んでいた。「母親と一緒におりたい、死ぬときは母親と一緒に死ねばいい」という、その思いを達したという小学校3年生の女の子の微笑みかなと。」
カラー写真でよみがえる姉の記憶
梶矢さんがずっと大切にしてきた、たった一枚の兄姉写真をカラー化することにしました。まずAI技術でカラー化し、さらに、当時の資料や梶矢さんの「記憶の色」をもとに修正を加えます。 ■被爆者 梶矢文昭さん 「この色には記憶がある。ビロード状の服はね。」 ■広島テレビ 庭田杏珠記者 「ここに飾りがあるなと思って。お正月の松と葉ボタンなのかなと思って。」 ■被爆者 梶矢文昭さん 「私も今まで気がついていなかったけども。それはおそらく、松と葉ボタンよ。」
そして、被爆前の姉の晴れ着姿については… ■被爆者 梶矢文昭さん 「本人が好きというよりは、親が着せたがる。女の子の小さい子供には、赤系統を着せたがることが多い。」