サウナ、激辛料理、マラソン―体を傷めつけることは好きですか?―リー・カワート『なぜ人は自ら痛みを得ようとするのか』
サウナでは、暑さで全身から汗が噴き出す。激辛料理では、唇も喉も胃もダメージを受ける。ウルトラマラソンでは、倒れるまで走り続ける。人はなぜ、こんなことをするのだろう。痛くて苦しいことはわかっているはずなのに。 不合理で魅力的、健全であり危険な、限界を超える行為の仕組みに挑んだ書籍『なぜ人は自ら痛みを得ようとするのか』より、はじめにの一部を公開します。 ◆誰もが痛みを選んでいる マゾヒストと言って頭に浮かぶのはどういうものだろうか。 ラテックスのメイド服にオイルを塗った体を押し込み、ご主人様の女性がムチを振るうたびに小さな尻をふるわせる、65歳のベンチャーキャピタリストだろうか? それとも、イギリスの小説『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のしなやかで臆病な主人公、アナスタシア・スティールだろうか。彼女は契約を交わして強制的な虐待の世界に足を踏み入れるが、それは合意の上の健全なBDSM[Bondage 拘束、Discipline 体罰、Sadism 加虐、Masochism 被虐の頭文字]とはほど遠い。それとも、離れ家のなかで泣き叫ぶわたし? 焼けつくように暑い日に気が遠くなるくらいの距離を走り、公園で遊ぶ幼児たちが目を丸くする前でアジサイの茂みに嘔吐して、それでもはるか遠くのゴールを目指すマラソンランナーを思い浮かべるかもしれない。トウガラシ中毒はどうだろうか? カレーに大量に入れて頬を上気させながら食べ、額を汗で光らせている人たち。「マゾヒスト」と言うと、タトゥーが体を覆い、顔は金属の鋲とシルバーのフープピアスできらきらと輝いている人を思い浮かべるだろうか。真冬に凍るような水に飛び込んだり、友人の尻を叩いて特殊なクラブに参加させたりするマゾヒスト(あなたのことよ、おバカさん)は? 血が流れるまで自分の爪の甘皮を噛む人もいる。タイヤフリップ[タイヤを起こして倒すことを繰り返す]のトレーニングをするクラブは? バレリーナは? ボクサーは? ロデオクラウン[ロデオで乗り手が振り落とされたときなどに、乗り手の安全確保のために雄牛の注意を引く人。道化師の格好をしている]は?自分自身はどうだろう? もうパターンはおわかりだろうか? こうした人たちはみな、苦痛を感じることを意図的に選択している。わたしたち人間が痛みを避け、快適さを求めてきた歴史はとても長い。それなのに、なぜこんなことをするのだろうか? そうした人たちは痛みからなにを得ようとしているのか、みなさんはどう考えるだろうか? わたしが言いたいのは、この本でもあなたが知っている本でも、マゾヒズムには確かにセックス関連のものがあるけれど、それだけとはかぎらないということだ。実際、快楽を得るための苦しみが、生殖器とそのしたたかな欲求とはほぼ無関係ということはよくあるのだ。それに現代において「苦痛によって快楽を得る」ことを表すこの言葉は、19世紀のオーストリア人男性がしでかしたことから派生したものなのだが、今となっては当時よりもずっと、もっと大きい意味をもっている。セックスはマゾヒズムを語る際の入り口ではあるかもしれないが、マゾヒズムとは異常な性的嗜好にとどまらず、もっとずっと大きいものなのだ。 今、わたしが「マゾヒスト」という言葉を使うとき、わたしは普遍的で時代を超えた、人間らしいもののことを言っている。つまりは、いい気持ちになるために意図的に苦しいことを選択するという行為だ。意図的に痛みを感じる。人はこの戦術を長いこと用いてきた。生化学上の安堵感を生み出すことを意図して、つらいことはわかったうえで苦痛を伴う刺激を受けるのだ。これは異様なことではないし、珍しいことでもない。 「マゾヒズム」についてのこの考え方―気持ちよくなるために悪い気分を味わうという人間の特性――は、これはそうで、あれはそうではないといった類のものではない。実際には広範におよび、いろいろな性質のものが重なり合い、つながっている。ウルトラマラソンの走者がマゾヒストだとしたら、マラソンランナーについてはどうだろうか? マラソンランナーにしても、失禁し、しじゅう足指の爪をはがしているのだ。寒中水泳をやるポーラーベア・クラブの参加者がマゾヒストだとしたら、サウナ施設の冷水プールを使う人たちはどうだろう? シャワーの最後に冷水を浴びて体を刺激するのはマゾヒスト的行為なのだろうか。トゥシューズで踊るのはマゾだろうか。膝裏のやわらかい部分に傷ができるポールダンスのクラスは? LARPing(ライブアクション・ロールプレイング)――痛くはあるけれど実害はない、しっかりと詰め物をした武器を使って戦う――はどうだろう? こうしたアクティビティのすべてとそれをやる理由に共通するものがあるかもしれないという仮定は、わたしは無理があるとは思えない。結局、わたしたちみなが動かしているのは、同じように不安を抱えた似たような体だ。人類の経験で体を伴わないものはない。感情にしても呼吸と同じくらい身体的なものだ。感情も、体の内から発される。思考やおならやいろんな体臭と同じように。そしてあなたやわたし、ほかのだれかが意図的に痛みを伴う行為をするとき、ひとつには、何百万年もの進化の結果を用いて、一種のバイオハッキング[自身の体がより効率よく機能するようにすること]を行おうとしているのだ。まずひどい気分を味わうことで自分を気持ちよくさせること。それは楽しい行為で、あなたもこれが気に入るだろう。 わたしの見方では、マゾヒズムは非常に人間的な行動であって、性行為と関係があるのはほんの一部だ。たしかに、性的なマゾヒズムがわたしの好きな面であることは否定しない。でも、だ! これから見ていくように、マゾヒズムは、率直に言って「どこにだって」ある。例えば、マゾヒズムのなかでも一番激しいものを見てみよう。ウルトラマラソンだ。わたしは、読者のみなさんが一様に、「一度に何百キロも、寝る間を惜しんで走るからといって、その人たち全員がマゾヒストなわけないだろう」と言うなんて思ってはいない。1日かけて砂漠を走るマラソンのような大事を成し遂げるためには、マラソンに参加する人はその苦しみからなにかを得ようとしているに違いないと考えるのが当然ではないだろうか。それが、必ずしも金のためでないことは確かだ。ウルトラマラソンには賞金が出るものもあるけれど、賞金獲得は、ウルトラマラソンではまだ一般的なことではない(変わってきてはいるけれど)。例えば、ランナーが最後のひとりになるまで続くビッグ・バックヤード・ウルトラは、もっとも過酷なレースとして広く知られていて、賞金はゼロ、出るのは記念品のみだ。とにかく経験したい――そうした気持ちから、参加者たちはこのきわめて過酷なレースをやり遂げようとする。本当にギリギリのところまで体の限界に挑戦するなかで――砂埃で目が見えなくなったり、体力維持のために口にしたものをすべて吐き出したりすることもあるだろう――ウルトラマラソンのランナーは意図的に苦痛を追い求めている。わたしは、彼らは苦痛からなにかを得るのだと考えている。そうでなければどうしてこんなことをするのか。内なる報酬があるはずだ。逆説的に思えるかもしれないが、本書では、わたしはその仕組みを説明するつもりだ。この本を読み終えたら、快楽を得るための苦痛には様々なものがあるが、そのすべてが、実際には大きく似通っていることがわかるだろう。 ◇ 必ず守らなければいけないこと マゾヒズムと苦痛について語るとき、わたしは単に様々な苦痛のことだけを話しているわけではない。マゾヒズムは、「つねに」合意のうえに行わなければならないというのがきわめて重要な決まり事だ。そうでなければ、それはマゾヒズムではない。それだけだ。わたしが本書で語るのは一般的な苦痛ではない。苦しむという行為は人間が経験する非常に幅広いものにおよんでいる。もし苦しむことから身を引くことができないとしたら、それはマゾヒズムではない。マゾヒズムではありえない。苦しみながら走ったり、筋肉が悲鳴をあげるまでものすごい重量のものを持ち上げたりすることを自身で選択しているとしたら、その人はマゾヒストだ。こうしたことを意思に反してやらされているとしたら、その人は囚人か奴隷だ。これはなにも、同意の上ではない苦しみのなかに意味を見出せないということではない。結局、こうしたことをやる人は大勢いるのだが、わたしは、合意してはいない状況で苦痛を楽しむことは、真のマゾヒズムというよりも対処メカニズム[精神的苦悩や問題に対処するために働く仕組みで、身体的な病気や行為となって表れる場合もある]だと考える。マゾヒズムとは選択、合意、そして自律性を要するものなのだ。とはいえ、マゾヒズムとは原則、自分の体を痛めつけて苦しむこと、おそらくは多少つらい経験をすることだと考えている人は大勢いる。結局、苦痛は、気持ちよくなるモルヒネを体内で生み出してくれる体のシステムに、密接にむすびついているのだ。 この点を明瞭にし、確認したうえで、マゾヒズム――自身の体に痛みを受けるという選択――は地下牢や寝室にかぎらず、ジムやレストラン、真冬の海岸など、わたしたちの周囲のいたるところにあることを紹介していきたい。それは力があり、恐ろしく、健全であり危険でもある。それによってあなたは限界に挑戦し、生き生きとした感情を得、血の味がするほど唇をかみしめることになる。そうすることで、いくらか気持ちよくなると思えるからだ。要するに、マゾヒズムはいたるところにある。だから、マゾヒズムについて語ろうではないか、ということだ。 この本では人間のマゾヒズムについて様々な角度から探究する。それを行う理由。苦しみを選ぶことからわたしたちはなにを学ぶことができるのか。みなさんはマゾヒズムに手を出すかもしれないし、出さないかもしれない。けれどそれを眺めるのはみな大好きだ。 [書き手]リー・カワート(研究者、科学ジャーナリスト) [書籍情報]『なぜ人は自ら痛みを得ようとするのか』 著者:リー・カワート / 出版社:原書房 / 発売日:2024年01月26日 / ISBN:4562073861
原書房
【関連記事】
- 王妃が肌着を一枚着るまでに何人の家臣が必要?―ダリア・ガラテリア『ヴェルサイユの宮廷生活: マリー・アントワネットも困惑した159の儀礼と作法』
- 「マッスルメモリー」「筋肉は、いちばん身近な宇宙」、体と食の金言紡ぎ出す―平松 洋子『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』中島 京子による書評
- 哲学は私たちを幸せにしてくれるのか?本当の哲学は、薬どころか毒にもなりうる―シャルル・ペパン『フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書』
- 日常からスポーツが消えた。最終学年の学生アスリートたちの胸中に迫る―毎日新聞運動部『最後の一年 緊急事態宣言ー学生アスリートたちの闘い』
- 「世界記録の生まれる場所」では、走ることは生きることそのもの。人類学者迫真のフィールドワーク―マイケル・クローリー『ランニング王国を生きる』