何度も世間を騒がせた女の「静かすぎる」旅立ち…伝説のストリッパー・一条さゆりの「最期」
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第123回 『「弱者に無関心すぎる…」マザー・テレサがお忍びで訪れた“西成・釜ヶ崎”で暴いた日本人の「本性」』より続く
一条さゆりの死
8月3日昼過ぎ、私は突然、加藤詩子から連絡を受ける。 「一条さんが、亡くなったんです」 加藤詩子から電話で伝えられたのは1997年8月3日の昼過ぎだった。 「いつですか」 「さっきです」 加藤の声が沈んでいる。 この日も大阪は朝から太陽が照りつけ、気温はすでに30度を超えていた。 私はすぐに、一条が安置されている病院へ急いだ。彼女の言葉が何度も思い出された。 「あたし、死んだら無縁仏になるんかなあ」 亡くなったのは大阪市西成区の杏林記念病院だった。肝臓を悪くしたうえ糖尿病の兆候もあった彼女は、ここで入院治療していた。
一条さゆりのもとへ
この日は日曜日で病院は静かだった。ロビーに患者や看護師の姿はなかった。事務職員に声を掛けた。 「池田さんが亡くなったと聞いたんですが」 本名で確認を求めた。 「その件については先生に聞いてもらえへんかしら」 事務職員はそうした問い合わせがあるだろうと、予測していた様子だった。 「先生というと?」 「主治医の先生です」 「どこにいらっしゃいますか」 「もう帰宅されました」 この職員によると、一条は1階の奥に安置されている。私と職員のやりとりを聞いていたのか、当直医が出てきた。 「池田さんのことかいな」 「はい、会わせてもらいたいんです」 「あなた、どちらさん?」 私は記者であると明かし、一条との交流について説明する。 「家族以外の人に会わせることはできませんよ」 医師は私の説明を途中でさえぎり、ピシャリと言った。