朝ドラ『虎に翼』寅子らが出会う「戦争孤児」がうけた非道な仕打ち オンボロ収容所に子供を押し込めた「狩り込み」とは?
NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』は第11週「家に女房なきは火のない炉のごとし?」がスタート。佐田寅子(演:伊藤沙莉)ら最高裁判所家庭局の面々の課題は、社会問題になっていた戦争孤児たちの救済にまで広がっていた。上野で孤児たちのサポートをしている山田よね(演:土居志央梨)や轟太一(戸塚純貴)と再会した寅子はその現実に直面し、ひょんなことから孤児の道男(演:和田庵)を居候させることにする。今回は道男たちのような戦争孤児がおかれた状況と社会背景を解説していく。 ■戦争で家族を失った子供たちは「厄介者の浮浪者」扱いされた 昭和20年(1945)に入って日本本土への無差別爆撃が激化すると、各地で両親や親族を失って孤児になる子供が急増した。自分が疎開している間に、残った家族と家を空襲で失う子供も多かった。また、終戦後に外地から引き揚げてきた孤児も少なくなかった。昭和23年(1948)2月の「全国孤児一斉調査結果」によると、12万人を超える孤児が存在したという。 厚生省は、昭和20年9月に「戦災孤児等保護対策要綱」を発表。戦争孤児を「国児」と呼び、そうした子供たちを保護すべく、個人家庭への保護委託や養子縁組の斡旋に取り組むとした。とはいえ、まだ日本全体が終戦後の混乱から抜け出せないなかで、誰もが自分や家族の命を繋ぐことで精一杯だった。見ず知らずの孤児たちに手を差し伸べるだけの余裕などなかったのである。 結局、孤児たちは徒党を組むなどして身を寄せ合いながら、道端でその日をどうにか生き延びることしかできなかった。物乞いをしたり、ゴミを漁ったりするのはもちろん、露店の手伝いや新聞売り、モク拾い(捨てられた煙草を拾って売る)などをしてどうにか稼ごうとする子供がいた一方で、置き引きや万引き、スリで金品を手に入れようとする子供も少なくなかった。そうしたイメージが先行してしまい、人々は孤児を「犯罪者もしくは予備軍」とみなして疎んじた。 昭和21年(1946)4月に「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」、さらに9月に「主要地方浮浪児等保護要綱」が発表されると、「国児」と呼ばれていた孤児たちは今度は「浮浪児」と呼ばれて保護施設への収容が進められるようになった。子供たちは「戦争被害者」から一転して「浮浪している反社会的存在」とみなされるようになっていったのである。 作中でも描かれたように、取り締まるべき存在とされた子供たちは、半ば強引に児童保護施設や委託家庭に送られる。「浮浪児の発見・捜索・収容施設への強制収容」を指して、当時「児童狩込」などと呼ばれた。 一連の政策は、日本政府が子供たちを保護しようと主体的に動いたものというよりは、GHQの公衆衛生福祉局が鑑別所や保護施設をつくって早々に子供たちをそこに収容するよう厳命したという背景がある。ゆえに、十分な措置を積極的にとれたかというとそうではない。山田よねや轟太一が寅子らを信じきれないのも、そうした事情をよく知っていたからだろう。 とにかく食糧も物資も不足していた時代である。収容施設とは名ばかりで、急造したバラックや古い兵舎、工場を利用したケースも多い。窓ガラスは割れ、屋根も壁もボロボロ、畳も傷んで床が剥き出しといった劣悪な環境に、収容定員の何倍もの子供たちが押し込まれ、満足に食事も行き渡らない……という状況が当たり前だったという。まるで罪人のように強制的に収容された子供たちは、過酷な環境に耐えきれずに脱走することも多かった。 戦争で心身ともに傷つき、身寄りをなくし、社会に見捨てられて不信感を募らせた子供たちと向き合う寅子らは、その先でどのような答えを導いていくのだろうか。
歴史人編集部