株価も推理、三菱地所で必勝 山村美沙 株は人任せだと失敗する 中山あい子
手当たり次第で勝った株でもうけ、美酒に酔う
作家活動にテレビ出演に多忙な中山あい子が他界してもう17年になる。中山あい子の投資歴は通算すると40年を超す。初めて株式投資を試みるのは駐日英国大使館に英文タイピストとして勤務していた28歳のころにさかのぼる。 第2次世界大戦後、1949(昭和24)年に証券取引所が復活して間もないころ、東京電力を100株買ったのが始まり。当時は第1次株式ブームに沸いていた。そして高度成長期のスタート時点で日立製作所を買う。株は買っておきさえすればもうかった時代でもある。朝日新聞社編『私の株体験』でこう述べている。 「100株から始めたけど、無償増資だとか、株価の半分だけお金を出せば新株を分けてくれるとかで、200株になって、その後も400株、500株と膨らんでった。もちろん株価も上がる、上がるで、こんなことあって良いのかと思ったわよ」 増資と株価上昇のダブルで資産が増えていくのだからたまらない。 「こんなこともあっていいのだろうか」と思うとは、なんともうらやましい。たしかに、このころは全国津々浦々が株ブームに包まれ、米作り農家も鎌や鍬を持つのを忘れて、短波放送の株式相場速報に聴き入ったともいわれる。 「銀行よさようなら 証券よこんにちは」とか「マネービル」といった言葉がはやった。週刊誌には必ず1、2ページ、投資のペ-ジがあった。そこでは沙羅双樹(さらそうじゅ)や邱永漢(きゅうえいかん)、益田金六など人気の“相場文士”が投資の指南番として健筆をふるっていたものだ。 東京オリンピック後の株価暴落で素人投資家は冷水を頭からかけられ、株式投資が決して甘いものではないことを知らされる。中山は自著『女と株』の中で書いている。 「昭和40年の暴落のあと、ずっと株の研究をばかりして、新聞欄をみたり、印をつけて売ったり買ったり、架空の遊びをしていた。5、6年経ったころ、あれは昭和45年だったろうか、東京の町にやけに生コンの車が走りまくっていたころのことだ。私はセメント、小野田セメントを買ってみようかなと思った」 あれよ、あれよという間もなく上がっていく。この時株だけの通帳をつくった。43才で男との縁を絶った中山の楽しみは酒と株であった。 保土谷化学、旭化成、キッコーマン……手当たり次第に買っては勝利の美酒に酔う。ただ投資信託だけは損をした。 「あれは任せたもの。株は人任せではいけない。人を恨むようになる」=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 山村美紗(1934-1996)の横顔 小説家、推理作家。父木村常信は京大名誉教授。京都大学進学後、朝鮮総督府京城法学専門学校校長に任じられ、終戦まで朝鮮に在住、美紗もソウルで生まれた。昭和32年京都府立大卒、「ミステリー界の女王」と呼ばれた。 中山あい子(1923-2000)の横顔 小説家、長崎の活水女学院卒、英文タイピストとして英国大使館に16年勤務、退職後神田の貸しビルに管理人として住み込みながら同人誌に小説を発表。「女流の焼跡闇市派」と称される。数多い著書の一冊に「女と株」がある。女優・中山マリは1人娘。