【鉄道と戦争の歴史】大量輸送の重要性に目覚めた日本~極東に触手を伸ばす大国ロシアの脅威に対抗する~
日清戦争を体験した日本は、近代戦では兵站の優劣が勝敗を分けることを、身をもって学んだ。当初陸軍では、鉄道の利用価値は日本列島に上陸してきた敵に対して、部隊を展開するためにあると考えられていたのだ。 対外戦争を経験した日本は、部隊だけでなく大量の物資を集積場まで迅速に輸送することが不可欠だということを知る。そのため東海道線では、日清戦争後も引き続き改良工事が進められた。 中でも輸送力の向上につながる複線化には力が注がれ、交通の難所である関ヶ原も、明治33年(1900)に複線化。こうして日露戦争開戦までに、東海道線の7割以上が複線化されている。 だが戦争への備えを急ぎ、複線化を推し進めた結果、広軌(こうき/1435mm・国際的には標準軌)を導入すべきという意見は棚上にされた。トンネルの改良工事が必要になるためだ。こうして日本の鉄道は、1067mmの狭軌(きょうき)が固定化されてしまう。 東北方面の路線は、日本鉄道が上野~青森間の東北線を明治24年(1891)に全通させていたが、福島から青森へ至る線(奥羽線)の建設が急がれていた。だが福島と青森の間が全通したのは、日露戦争の講和会議が開かれている頃であった。そのため、東北からの兵員輸送はもっぱら東北線が担っている。 明治維新以来、開拓事業が進められてきた北海道は小樽、旭川、室蘭各地と札幌を結ぶ路線は、官民を合わせれば日露戦争までには運行が始まっていた。函館と小樽を結ぶ線は開戦時には間にあっていなかったものの、当初危惧された、ロシア軍の北海道上陸という事態は起こらなかった。旭川の第7師団から函館に派遣された大隊も、鉄道で室蘭まで移動した後、徒歩で函館に向かったという程度で、大きな影響は起きていない。 三国干渉により日本が遼東半島の領有権を放棄した後、ロシアは1896年に清国と「露清密約」を締結する。これは日本が再度清国に攻撃を仕掛けてきた際、ロシアが盾となる見返りに清国は満州の権益をロシアに与える、というものだ。その密約の一環として、ロシアは1898年に旅順と大連を租借。旅順に太平洋艦隊の基地を置いた。さらに旅順までの鉄道敷設権も入手する。 日本は日清戦争に勝利したことで、朝鮮を属国としていた清国を朝鮮半島から排除。アメリカ人実業家モーリスが権利を獲得していたが、建設が頓挫していた京城(当時は漢城・現ソウル)と釜山間の鉄道敷設権を、渋沢栄一らが明治31年(1898)に譲り受けた。そして渋沢らは明治34年(1901)に京釜鉄道を設立し、工事を着工する。この鉄道は建設中に日露戦争が勃発したため、一部の河川をフェリーでつなぐなどして、明治38年(1905)には暫定ながら全線開通させている。 その頃の清朝政府は腐敗しきっていた。そのうえ列強から侵略され、国が分裂する危機に見舞われていた。また諸外国から安い商品が大量に流入したことで、農民の生活は完全に行き詰まってしまう。さらにキリスト教徒が我が物顔で布教する行為に、多くの民衆が怒りを覚え排外的な気運が高まった。 こうした不満を抱えた民衆や破産した農民らは、義和拳(ぎわけん)という反キリスト教の秘密結社と結び付き勢力を拡大する。清国政府の守旧派も義和拳を弾圧しきれないと判断し、逆に列強に対抗させるため農民の自衛組織である団練(だんれん)に組み込み、名称も義和団と改称させた。 こうして半合法化された義和団は、華北一帯に波及し、遂には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃した。ここに至り日本、ロシア、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリアの8カ国が連合軍を形成し、義和団を鎮圧した。この時、連合軍の主力となったのは日本とロシアであった。 日本軍の目覚ましい働きぶりは欧米列強から高く評価された。だが、極東に食指を伸ばすロシアは警戒心を強めた。ロシアは義和団の完全な鎮圧を口実に満州全土を占領。日英米はこれに強く抗議した結果、ロシアは撤兵を約束。ところが期限を過ぎても居座り続けるどころか、駐留軍を増強していた。 ロシアの勢力が極東地域で拡大ことを危惧したイギリスは明治35年(1902)、日本との同盟に踏み切った。こうして日本は、イギリスという大きな後ろ盾を得たのであった。
野田 伊豆守