なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#47
ポツダム宣言の受諾によって、「戦争犯罪人」が処罰されることになった敗戦国、日本。米軍がBC級戦犯を裁いた横浜軍事法廷では、命令による実行者で下士官や兵の場合は、情状酌量されるケースもあった。しかし、石垣島事件では藤中松雄ら下士官二人が極刑を執行された。同じ米軍機搭乗員が殺害された事件と何が違ったのかー。 【写真で見る】石垣島事件で殺害された3人の米軍機搭乗員
命令したことを認めていた大佐
石垣島事件の戦犯裁判では、1948年3月に宣告された最初の41人死刑の判決から、二回の再審で34人は減刑されたが、1955年ごろになってもまだ14人がスガモプリズンに止め置かれていた。その釈放を勧告する文書の中に厳罰となった理由の記述があった。 (「石垣島事件関係者赦免勧告総括的理由」より) 終戦後この事件が発覚して、占領軍の捜査機関により捜査が開始せられるや、司令の井上乙彦大佐は自己保身のため、その責任を回避せんとしてか、処刑の命令を下したることなき旨、陳述していたため、関係者多数が検挙さられて、遂に一兵卒に至るまで上官の命令ではなく、自己独自の意思によって実行したものなりと認定され、起訴された者四十六名の多数に及び、内一名は裁判中結核のため不起訴となったが、四十五名は判決を受け、そのうち二名無罪、二名有期刑の外は、すべて絞首刑を言渡されるに至ったのである。 石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐が保身のため、「自分が命令したことはない」と述べていたため、それぞれが自分の意志で飛行士たちを殺害したことになり、多くの者に死刑が宣告されたということになっている。 しかし、井上大佐は裁判の終盤で法廷の証言台に立ち、「自分が命令した」ことを明確に訴えている。 〈写真:石垣島事件で殺害された3人の米軍機搭乗員〉
最終弁論で弁護人が主張したこと
1947年11月末に始まった石垣島事件の裁判は、翌年3月8日と9日に弁護人の最終弁論が行われた。その前に行われた検事側の論告では、全員に対して絞首刑が求刑されている。最終弁論は、アメリカ人女性のブライフィールド弁護士が担当した。 この最終弁論の内容を検討したであろう文書が国立公文書館にあった。日本人の尾畑義純弁護人のサインが入った「井上乙彦被告に対する弁護士側最終弁論についての意見」という文書だ。 〈写真:石垣島事件の法廷(米国立公文書館所蔵)〉