若者を大事にしない高齢ニッポンが、大復活するために必要な「英才教育」という切り札
「結果の平等」よりも「チャンスの平等」を
英才教育のもう1つは、「国家として必要な分野」の人材の育成である。勤労世代が激減していく今後の日本は、各分野で人材が少なくなっていく。 「社会の老化」は人々の関心を遠い将来よりも目先の課題に向けさせるため、現時点での人材不足分野の手当てを求める声が強くなるだろう。しかしながら、場当たり的に人手不足の分野の手当てをしていたのでは、社会全体としての辻褄が合わなくなる。 分かりやすいのが、医学分野だ。政府は、高齢化に伴う患者増で医師が不足するという予測に基づいて医学部の定員増に踏み切った。だが、医師だけを増やしても問題が解決するわけではない。需要が伸びれば、看護師をはじめさまざまなスタッフも不足するからだ。 新型コロナウイルスの感染拡大によって医療崩壊が現実のものとなり、医師や看護師はもとより、検査技師や保健師の不足が指摘されると、さらに人の手当てをすべきだという世論が強まった。 だからといって医学関係学部の増員を図り、優秀な人材をどんどん送り込んでいったら、今度は他の分野の専門家が不足してしまう。例えば、現在の日本には最先端のデジタル人材が圧倒的に不足している。社会基盤をつくるこうした分野の層が薄くなれば、日本の根幹を揺るがす。それどころかサイバー攻撃は激しさを増しており、安全保障上の危機を抱え込むことにもなりかねない。 とはいえ職業選択の自由が保障された日本で、強制的に特定の職種を増やすことはできない。そこで政府が「国家として必要」と判断した分野に限り人数を限定して、学費のみならず下宿費用などの学ぶために必要な経費のすべてを、国費で負担するのである。 日本の将来の発展に大きく関わる分野を背負って立つ優秀な人材を見出し、育成していくことは社会全体の利益となる。成長を見込めない分野にこだわる企業が少なくない中、成長分野への人材シフトの流れをつくることは、「社会の老化」を遅らせることにもなる。 一学年当たりの学生・生徒数が多かった時代は、大勢で競い合う中から才能のある人材が自然と出てきたが、若い世代の絶対数が減った以上、それは期待できない。意欲と能力を兼ね備えた若者に、専門知識を深く学ぶ機会を意識的に用意するしかないのである。 国費を使った英才教育には批判もあるだろう。戦後の日本では一貫して「結果の平等」が重んじられてきただけに、「不公平だ」という声も予想される。こうした批判を回避するには、等しく誰にもチャンスが与えられるようにすることである。 まずは政府が、募集する分野の人材がどうして国家として必要なのかを明快に説明した上で、公募として採用試験を課す。さらに、国費で英才教育を受けた人には、身に付けた知識や技能、人脈を日本社会に還元するよう義務付ける。例えば、一定期間は国家公務員などとして国家の仕事に就くことを条件として課すなどである。 「社会の老化」がもたらす停滞やチャレンジマインドの冷え込みを考えれば、これからの時代は「結果の平等」ではなく、誰もが努力すれば機会を得られる「チャンスの平等」を尊重する社会に変えていくことが不可欠となる。