オアシスはなぜ現象化した? 90年代ロックシーンの時代背景とギャラガー兄弟の特異性を検証
オアシス(Oasis)はどのようにして、あそこまで大きな“現象”を巻き起こすことができたのか? それを検証するには、彼らを輩出したマンチェスターの音楽シーンと、UKインディ・ロックの90年代前半を振り返る必要がある。 【動画】1994年9月14日、オアシス初来日公演のライブ映像
オアシス台頭前夜のUKロックシーン
ストーン・ローゼズは1990年5月にスパイク・アイランドで約27000人以上を動員した歴史的なコンサートを行なった後、7月にシルヴァートーン・レコード在籍時最後のシングル、「One Love」をリリース(全英シングルチャート4位まで上昇)。飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼らは、シルヴァートーンの待遇に不満を抱き、契約解消を求めて法廷闘争に突入する。多額の前払金を獲得してゲフィン・レコードへ移籍するも、待望の2ndアルバムは制作が遅れに遅れ、一向に完成しない。ようやく出来上がった『Second Coming』がリリースされたのは1994年12月。英4位、アメリカでも47位まで上昇したが、期待を上回るセールスとは言えない結果に終わった。彼らがトップに君臨していた時期に2枚目のアルバムがタイミングよくリリースされていたら……その後のUKロックの歴史は、まったく異なるものになっていたかもしれない。 ストーン・ローゼズと共にインディ・ロック×ダンス・ミュージックの流れを牽引していた“マッドチェスター”の中心的グループ、ハッピー・マンデーズは、1990年11月にリリースした3枚目のアルバム『Pills ’N’ Thrills And Bellyaches』が全英4位まで上昇。しかしフロントマンのショーン・ライダーが重度の薬物中毒に陥り、他のメンバーもドラッグやアルコールに溺れ始め、活動が停滞する。トーキング・ヘッズのクリス・フランツとティナ・ウェイマスにプロデュースを託し、どうにか完成まで漕ぎ着けた次作『Yes Please!』が世に出たのは1992年9月。アルバムのセールスは英14位止まりと伸び悩み、所属していたファクトリー・レコードは破産、バンドも1993年に一旦解散した。 ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズと共に“マッドチェスター”の中心にいたインスパイラル・カーペッツは、『Life』(1990年/英2位)で生み出した熱狂を持続できなかったが、3作目『Revenge Of The Goldfish』(1992年/17位)でギター・ロック色を強め、しぶとく活動を継続。その直前のUSツアーで大きな刺激を受けたことは明らかだったが、彼らのツアーにクルーとして同行していたのがノエル・ギャラガーで、後にオアシスの作品を手掛けるエンジニア、マーク・コイルとの運命的な出会いもクルー時代に果たした。ノエルはインスパイラル・カーペッツとのツアーから戻ってきた1991年に弟のリアムが参加していたバンド、オアシスのライブを観て、間もなく加入する。 “マッドチェスター”の全盛期にはマンチェスター以外の地域のグループもインディ・ダンスの波に乗り、シャーラタンズ(ウエスト・ミッドランズ出身)やザ・ファーム(リヴァプール)が次々に成功したが、1991年にニルヴァーナがブレイクしてからはUKバンドの潮流にも変化が出てくる。USオルタナティブの影響下にあるレディオヘッドのシングル「Creep」(1992年)が先にアメリカで34位まで上昇、遅れて本国でも7位のヒットになったのは1993年のこと。一方、1stアルバム『Leisure』(1991年)でインディ・ダンスをうまく咀嚼していたブラーは、アメリカに背を向けて英国色を強める方へ舵を切った2作目『Modern Life Is Rubbish』(英15位)を1993年5月に発表、続く『Parklife』(1994年4月)での躍進に向けて足場を固める。当時のブラーのライバルはスウェードで、1993年3月にリリースした1stアルバム『Suede』が全英1位を獲得。ザ・スミスやデヴィッド・ボウイの影響を指摘されたインパクトのある詞・曲と、ブレット・アンダーソンのカリスマティックなパフォーマンスが圧倒的な支持を集めていた。