「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡――「どうして、あんなに早く」夫を失った妻の慟哭
「父の顔も知らない一子、一人前に育て上げ……」
ここで、同行した学生がサトさんの手紙を読み上げる。 大隊長のもとへ届いた文の多くは1946年頃に書かれており、候文や難解な古語などが混在していた。それを現代の遺族も読めるように訳したので、内容確認のため返還時には必ず読み上げたのだ。 その時に、遺族の前で手紙を朗読したり、戦死の状況を報告したりする「担当者」を一緒に活動するボランティアの若者たちの中から選出した。責任感を持って遺族に寄り添い、細やかな心配りができるように、という配慮である。 <妻・後藤サトさんからの手紙(1946年5月28日)> 先日は、御書面有り難う御座いました。 永い間、御苦労様でございました。又あの節は、主人共、色々御世話様に相成り、厚く御礼申し上げます。 常に覚悟はしていたものの、世が敗戦故、なんとかしてと、淡いのぞみをもたぬわけでもございませんでした。 早速山形に行って、山崎副官殿とお会いし、くわしく状況伺って参りました。 人名簿を見れば、あの通り、皆様、御戦死なのですもの。仕方なしと申すより外はございません。でも、どうして。あんなに早く、上陸直後にやられたとは思いませんでした。少しでも奮戦した後だったらと、それのみ残念でなりません。 過去の事は考えてもなにもならず、将来の生活に身を固めて、父の顔も知らない一子、隆を一人前に育て上げ、故人の遺志をつがせるべく、決心致しました。今後、何かと御世話様に相成る事と思われます故、何卒末永く、よろしく御願い申し上げます。 先ずは、乱筆にて御返信まで。 時節柄、御自愛の程を。 かしこ 五月二十八日 伊東大隊長殿 後藤さと子 この手紙の差出人は「さと子」さん、となっている。当時の女性が手紙を書く時、自らの名へ「子」をつける習慣があったからだ。おもにカタカナ二文字や漢字一文字の名前を持つ人が使っていたとされ、いにしえの身分が高い女性の名によく使われていた「子」を末尾に付け加えるのが礼儀正しい、との考え方に依拠するようだ。サトさんと同じく、遺族が伊東大隊長へ送った手紙の中にも、戦没者の母や妻の戸籍上の名に「子」を付け加えたものを何通か見かけている。 学生による朗読が終わると、隆さんは深々と頭を下げた。 「驚いたなぁ。お袋が親父をこんなにも思っとったとは……。戦後の暮らしでは、それがいっさい、わからなかった」 言葉を詰まらせながら語る。 「最後の部分にある、“一子、隆を一人前に育て上げ、故人の遺志をつがせるべく、決心”は、お袋らしいな。いじめられたときも、しっかりしろと強く励ましてくれたんだ」 溢れ出る涙を拭う。 隆さんによると、サトさんは高齢者向けの福祉施設に入所しているが、食欲も旺盛で元気に過ごしているという。 そんな母が終戦直後にしたためた手紙が返ってきたことは、本人には話さないつもりだそうだ。紆余曲折を経たつらい過去を思い出させたくない、という息子の配慮だろう。 「足腰は弱っているけど、たぶん100歳まで生きると思う。俺にとっては、素晴らしい母親だもの」 隆さんは再び深々と頭を下げ、拝むように手紙を受け取った。 「手紙を届けてくれた皆さんと伊東大隊長へ御礼を申し上げたい。もう胸がいっぱいで、夢を見ているようだ。諦めかけていた親父の面影が、目の前に浮かび上がってきた。言葉を紡げないほど感動している。今は、国や家族のために戦って亡くなった親父のことを誇りに思える」 帰り際、「サトさん以外のご家族に手紙を見せますか」と尋ねると、少し考え込んだあとに笑顔で答えてくれた。 「父が違う妹、弟には見せてもいいかな。でも、自分の子どもたちへは、どうしようか……。本当はお袋にも見せてやりたいけど、もう齢だからね。それに、父母の期待に添えるほど、俺が立派に生きているのかと考えさせられる内容だもの。家族に見せられるのは、その答えが出てからかもしれないね」 終戦の年に生まれ、戦後の復興と発展を支えた企業戦士でもあった隆さん。2023年の秋に連絡した時には、「今もタクシードライバーとして働いているよ」と快活に笑った。家族のため真面目に働く姿は、78年前の豊さんと重なり合うかのように感じられた。 ※本稿は『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』(浜田哲二・浜田律子、新潮社)の一部を抜粋・再編集したものです。
浜田哲二,浜田律子