「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡――「どうして、あんなに早く」夫を失った妻の慟哭
連隊一の射撃の名手の早過ぎる死
ここからは、伊東が最初に部下を失った日の情景を、本人による視点で再現する。これらの記述は、伊東自身が戦後出版した私家版の戦記『沖縄陸戦の命運』と、本人および復員した部下、戦没した部下の遺族の証言、その他の資料などに基づく。 <弱者の戦法の効果> 忘れもしない1945年3月23日、その日は朝から晴れていた。 本島南部にある糸満の駐屯地に設けた急造の茅葺き小屋で朝食をとっていると、突然、キーンという低空飛行の音と同時に、「ババン、バババン」と叩きつけるような音が襲ってくる。小型機が機銃を連射してきたのだ。 反射的に小屋を飛び出して岩陰に潜り込みながら、叫ぶ。 「みんな隠れろ!」 周囲を見ると、緊張した面持ちの部下たちが、あちこちの岩陰にへばりついている。 これまでの米軍機は偵察に来るだけだったので気にも留めていなかったが、この日は違った。緊迫の数分間が過ぎると、目標は近くの製糖工場だと判明。間隙を縫って茅葺小屋の脇にある洞窟陣地に飛び込む。敵は数機の編隊を組んで、入れ替わり立ち替わり銃撃を繰り返す。 (なぜ、あんな施設を……。つまらぬ攻撃をするものだ) だが、遠方まで見渡すと、無数の敵機が乱舞している。すぐにそれが大空襲のほんの一場面であると気づいた。 北西にある小禄飛行場(現・那覇空港)付近から、むくむくと土煙が上がり、少し遅れてドドッと鈍い音が聞こえてくる。時折、友軍の高射砲が迎え撃つ黒煙が敵機の周りにパッと広がるが、あっという間に沈黙。遥か遠方に立ち上っている白煙は、北、中飛行場(のちの米軍読谷補助飛行場、現・米軍嘉手納空軍基地)への爆撃のようだ。 このときの米軍は16隻の空母を中心とした機動部隊で、3月18日から九州や瀬戸内の飛行場や艦隊などを空襲。その五日後には、沖縄本島周辺へ本格的な攻撃を開始し、初日だけで延べ355機を出撃させている。 さらに翌24日には、南西諸島へ向かう日本軍の増援部隊を乗せた船団を全滅させ、本島南部へ艦砲射撃を浴びせながら、上陸予定地点の掃海作業も始めている。 それは、日本の反撃能力を奪い去るのが目的だった。 「いよいよ来たか!」 誰に言うともなく、大声が出ていた。 今か今かと待ち望む闘志とともに、若干の恐れを抱きながら窺っていた敵の上陸が、現実感を伴って迫っている。これで死に場所は沖縄と決まった――。そう感じた途端、故郷の父母の顔が瞼に浮かんだ。両親はともに健在で、弟妹もいる。妻子を持たない自分一人が死んだとて、何ほどの事があろうか。すでに腹は括っている。 何よりも、陸軍士官学校から7年間積み重ねた勉学と鍛錬の総決算をするときが来たのだ。大尉に任官してからの年月は短く実戦の経験はないが、笑われるような戦はしない、との自負がある。その前途を示すがごとく、空を覆うばかりの敵機の攻撃は我が大隊に何の被害も与えていない。 それは、堅固な洞窟陣地の建造に励んだからだ。45年1月からの約3カ月間、将兵たちが一日も休まないでスコップとつるはしをふるい、糸満の阿波根から照屋地区に至る海岸沿いの丘陵地帯に、総延長10キロメートルにもわたる地下要塞を構築した。両端から掘り始めた洞窟が貫通した途端に、抱き合って泣く兵の姿があったほど、築城には苦労した。 日本軍の沖縄守備隊は戦いに先駆けて、約9万5000人の総兵力で全長100キロメートルに及ぶ洞窟陣地を構築している。が、伊東大隊と配下の防衛隊員は100分の1の約900人ながら、軍全体の10分の1に達する陣地壕をつくり上げたのだ。 「生きた戦訓である。他部隊に益するところ大なるを感謝す」 上官の雨宮巽師団長が、伊東大隊の成果を隷下部隊に布告。長勇参謀長からもお褒めの言葉を頂いた。 戦いにおいて、守る側が陣地を固めるのは必須だが、部下たちがここまで働けたのは、「弱者の戦法」の精神を習得したことが大きかった。堅固な軍陣による防御で、何十倍もの敵の銃機器の威力をじゅうぶんに発揮させず、がっぷりと四つに組んだ戦いに持ち込むことができる。 そして、上陸してくる敵を地下要塞で食い止め、敗戦の一途をたどる日本陸軍にも背骨があることを知らしめる戦術だ。 「よく築城する部隊はよく戦う」とされている。この日の大空襲以来、連日の艦砲射撃や空爆を受けたが、洞窟陣地内での被害はなく、死傷した兵数も総員の1パーセント以下だった。常日頃から唱え続けて来た弱者の戦法の効果が、いかんなく発揮されている。それが誇らしかった。 しかし、戦術が功を奏しても、死者が出るのが戦争だ。 阿波根地区の防衛を担当していた後藤豊准尉が4月18日、米軍艦載機(軍艦などに搭載・運用される航空機)からの機銃掃射で戦死した。敵の上陸地点を迎え撃つための新たな砲兵陣地を構築するため、作業支援の指揮を執っている最中のことだった。 伊東大隊は4中隊と1小隊の約800人で構成されている。第二中隊の指揮班長だった後藤准尉は、中隊長を補佐する重要な役割を担っていた。射撃の名手であると同時に、その指導教官でもある。ゆえに、この隊は優秀な射撃技術を持ち、評価は連隊中でも一番との誉れを得ていた。 堅固な陣地を一歩外に出れば、海からは艦砲弾が降り注ぎ、空からは戦闘機に狙われる。死と隣り合わせの日々で、陣地の構築中や司令部との伝令の途中に、部下が次々と命を落としていく。優秀なる准尉の早過ぎる死はその象徴で、隊にとって痛恨の極みだった。 後藤豊 准尉(享年33) 糸満市阿波根で戦死(45年4月18日)