「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡――「どうして、あんなに早く」夫を失った妻の慟哭
実の父がいないことでいじめを受けた長男
伊東大隊長が保管していた356通の返信を世に出すには、手紙の差出人の遺族の了承を得る必要がある。私たちは、後藤准尉の妻・サトさんが大隊長に宛てた返信を遺族へ届ける準備を始めた。准尉は山形出身。山形県遺族会が探してくれた数件の遺族のなかで、准尉の長男・隆さん(73歳)が最も積極的に動いてくれた。 手紙を返還する当日、遺族会の事務所に現れた隆さんは、電話でやり取りした哲二の顔を見るなり、駆けよらんばかりの勢いで握手を求めてくる。 「浜田さんですね。ありがとうございます」 職人のようなゴツゴツとした手が、年齢を感じさせない力強さで握り返してくる。 「驚いたなぁ、手紙は本当にあったんですね。いや、驚いた」 興奮を隠すことなく、自らの身の上を話し始めた。 後藤准尉は、隆さんが生まれる前に出征し、息子の顔を見ることもできずに戦死した。 母のサトさんが何も語らなかったので、隆さんは父の面影を知らずに育つ。幼少期、仏壇の引き出しにあった一枚の肖像写真が気になっていた。軍刀を抱えた兵士の凜々しい姿。 やがて母から、「この人がお前の実のお父さんだよ」と教えられる。その時に初めて、父が戦争で死んだと知った。以来、たった一枚しか残っていない遺影を宝物として、自分の部屋に飾り続けてきたという。 中学校時代、実の父がいないことでいじめを受けた。その心の傷を癒してくれたのが、豊さんの軍服姿の遺影。鋭く見えるが優しくもある眼差しが、弱気になりがちな自分を励ましてくれるように感じた。 1920年生まれの母・サトさんは、手紙の返還当時、97歳。戦後に再婚しており、隆さんには異父の妹弟がいる。実父のことをもっと知りたかったが、母が新しい夫に気を遣っていたので、豊さんのことは戦後、家族の誰も口にしなくなっていた。 そんな息子を不憫に思ったのか、母が高校への進学を勧めてくれる。同級生の多くが中学校卒で、都会へ集団就職する時代。貧しくて、自身は学べなかったことを悔いていた母の思いやりだったのだろう。その頃から、しっかり学んで恩返しをすると、隆さんは心に誓っていた。 義父の仕事は、履物の仲卸。時代は高度経済成長期であったが、複数の子供を抱えた一家の暮らしはけっして楽ではなく、むしろ厳しさは増すばかりだった。高校を卒業した隆さんは、家計を助けるために上京し、築地の魚河岸や青果市場などで働きながら、故郷へ仕送りを続ける。母を支え、異父の妹、弟の学費を捻出するために、午前2時からお昼頃まで毎日がむしゃらに働き続けたそうだ。 ただ、都会での生活に慣れてきても、戦没した実父へ抱いた思慕の念は深まるばかりだった。結局、義父の仕事を手伝うために山形へ帰ってきたが、実家には豊さんを供養する墓もなければ位牌もない。実父の事が何もわからないまま、70歳を過ぎるまで家族のために懸命に働いてきたという。 朴訥な東北の男が、涙をこらえながら語る父母への想いが、胸に迫ってきた。