『源氏物語』光源氏にはモデルがいる? 古注釈書が示す「3人の実在した人物」
光源氏と重なる源高明(たかあきら)や在原業平の生涯
『河海抄』は、前出の注とは別に、全体の冒頭の中で、光源氏を「西宮左大臣」と称された源高明に擬する説も紹介している。 源高明(914~982年)は醍醐天皇の皇子で、7歳のときに臣籍降下して源氏となる。26歳で参議となり、その後昇進を重ねて53歳で右大臣、翌年には左大臣にまで昇った。 ところが、安和2年(969)、56歳のとき、安和の変に連座し、大宰権帥(大宰府の副長官)に任じられて九州に左遷されてしまう。安和の変は、「冷泉天皇の皇太子守平(もりひら)親王(後の円融天皇)を廃位させ、同母兄為平(ためひら)親王を擁立する謀反が企てられている」という密告が源満仲らによってなされたことにはじまったもので、高明は為平親王の義父であったために関与を疑われたのである。 しかし、真相は藤原氏がライバルを排斥するために企てた陰謀だったとも言われている。高明は天禄3年(972)に赦されて京に召還されるが、その後は政界に復帰することなく没した。 一世の源氏ながら、政変に遭って左遷されたところは、スキャンダルが発覚して須磨に退去した光源氏と確かに重なるところがある。光源氏の父桐壺帝を醍醐天皇に擬する通説からしても、醍醐天皇の皇子である高明は光源氏のモデルたる資格を充分にそなえている。 また『河海抄』には、紫式部は高明と親しかったので、左遷された高明を偲んで『源氏物語』が作られた、という有名な伝説も記されている。ただし『河海抄』は、高明にはさして「好色」の噂がないとし、彼を光源氏のモデルとすることに疑問を呈してもいる。 好色という点では、美男の歌人で、恋をめぐる歌物語『伊勢物語』の主人公とされる在原業平(825~880年)を光源氏のモデルに挙げる説が古くからある。業平もまた賜姓皇族で、平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王の子として生まれたが、2歳のときに臣籍降下して在原氏となっている。 光源氏のモデル候補には、若くして内大臣にまで進むも、対立した叔父藤原道長との政争に敗れて九州に左遷された中関白家の藤原伊周(974~1010年)も挙げられてきた。そしてまた、紫式部とも深い関わりがあった、『源氏物語』が成立した頃の一大権力者、道長その人をモデルに推す声もある。 もっとも、繰り返しになるが、光源氏は物語の中の架空の人物である。そのモデルを一人に限定する必要はないだろう。作者は、恋と権力闘争に翻弄されながら廟堂を行き交った男たちの姿を融合させて、光源氏という「究極の尊い皇子」とでも言うべき理想的な人物像を造形した─。そんなふうに読み解いてみてもよいのではないだろうか。
古川順弘(文筆家)